University of Virginia Library

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六十
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六十

 種子島へ着いたのは、二時頃であつた。

 白く光つた海の上に、黄ろい、平べつたい島が、窓の向うに見えた。富岡は煙草をくゆらしながら、その、ながながと寢そべつたやうな、淋しげな島を眺めてゐた。ゆき子は昏々とよく眠つてゐる。富岡は何故ともなく、遠くへ來たものだと思つた。

 遙かに見える小さい港に、ごちやごちやと、小さい船がもやつてゐる。海添ひの家の屋根が、白と黒との切紙細工のやうなのも、富岡には珍しい眺めだつた。

 船はゆつくり時間をかけて、種子島の西の表港に這入つて行つた。夜の九時まで、この船は種子島に破泊してゐるのださうだ。夜の九時まで、この港から動かないのだと船員から聞いて、富岡は、少々退屈だなと思つた。こんなところにまごまごしないで、終點に早く着きたかつた。

 だが、種子島は、遠くから見ると、無人の島のやうにも見えた。何となく、陣に臨んで、久しく敵なしの感じで、無人の島には、感興が湧かない。だが、この大隅の海上に點在してゐる諸島のうちでは種子島は、唯一の文明を持つた島だと聞かされてゐる。この島よりも、もつと無人な島へ、いま自分は行きつゝあるのだと、富岡は、呆んやり、近くなつてゆく島の港を見てゐた。禿山のやうな島である。非常に長い廣々とした島でありながら、高山がないせゐか、いまにも海水に沈みかけてゐるやうな、平べつたい島だ。

「ねえ、何處かへ着いたの?」

 ゆき子が、枕の音をさせながら聞いた。富岡は、窓に頬杖をついたまゝ、

「種子島へ着いたンだよ」と、云つた。

「いゝ港ですか?」

「あゝ、こぢんまりしたところだ。起きて見るかい?」

「見なくてもいゝわ。‥‥どうせ、何處の港だつて、同じ事なンでせう?」

「案外、賑やかな港だよ。小さい船が澤山ゐるよ。佛印の何處だつたかな、これによく似た部落があつた」

「佛印に似てるの?」

「いや、似ちやアゐないが、こんな、部落があつたやうな氣がしたンだ。日本人のつくつた港といふものは、何處へ行つたつて、陰氣で淋しいもンだな‥‥」

 がらがらと、激しい音をさせて、錨をおろす音がした。船が少しづつ港の小さい棧橋に寄つて行つた。

 迎への人達ででもあらうか、明るい棧橋には、蟻のかたまりのやうに、澤山の人達が船を迎へに出てゐた。

 船が近づくにつれ、迎への人達の一人一人の姿がはつきり見えたが、服裝は、東京も鹿兒島も變りはない。若い女は、このごろ流行の赤いジャケツを着てゐるのもゐる。どの女もパアマネントをかけてゐるやうだし、若い男は、油で光らせた、リイゼントとかの髮かたちをしてゐた。

 軈て、ブリッヂが降ろされると、林檎や、金魚鉢を持つた下船客が、ぞろぞろとブリッヂを降りて行つた。狹い棧橋は波にゆらめき、ふはふはと蟻のかたまりがはしつてゐるやうに見える。富岡は、外套を肩へ引つかけて、一等のデッキに出て行つた。

 暫く見てゐるうちに、ぞろぞろと、丘状になつた町の方へ、群衆は消えて行つた。白い砂地のやうな道が、夕陽に、にぶく反射してゐた。木造の役所らしいのや、運送店や、三階建てのかしがつたやうな古びた旅館や、飮み屋なんかが、岩壁添ひにごちやごちや見えた。

 何の爲に、こんな處に、夜の九時まで、船が碇泊してゐるのか、富岡には不思議だつた。積荷をするにしても、棧橋には、大した荷物も出てはゐない。

 二人とも上陸はしないで、船のなかで、夜まで過した。夕方になつて、船の甲板には、きらめくばかりのイルミネーションがとぼり、騷々しいばかりに、擴聲器から流行歌が流れた。

 甲板や廊下を下駄で走りまはるものや、飮み屋の女の嬌聲も聞えた。幾度となく、富岡達の部屋のドアを開けて、なかを覗きこむものもある。富岡もゆき子も、この無作法には驚いてしまつた。

「屋久島も、こんなところかしら‥‥」

 ゆき子が、毛布にもぐり込んだなり、心細氣に云つた。何とかのブルースといつた、人の心を投げやりにするやうな、流行歌が、幾度も甲板で唸りたてゝゐる。

 翌日、朝八時頃、屋久島が見え始めた。

 富岡達は、安房の港へ上陸するのだ。船は、宮の浦の沖へ着いた。海岸は波が荒く、港もないので、沖あひに碇泊して、小船が、船客を運んだ。大隅諸島のはづれの、黒子のやうな、こんもりした孤島を眺めた時、富岡は、こゝが、自分の行き着く棲家だつたのかと、無量な氣持ちであつた。

 青い沁みるやうな海原の上に、ビロードのやうにうつさうとした濃緑の山々が、晴れた空に屹立してゐる。

 種子島の西南三二海里、面積は五○○平方粁、島形は、圓く殆ど出入なき水平的肢節。島の中央には、九州地方第一の高山、宮の浦岳、一九三五米が聳える。永味岳、黒田岳、所謂八重岳の群巒をなし、垂直的肢節の變化に富む。海拔一○○○から一五○○米の山腹に屋久杉の繁茂。

 富岡のポケットのメモには、屋久島の簡單な説明が記してあつた。種子島とはひかくにならない、黒々とした圓い島である。久しぶりに、島の濃緑な色を眺めて、富岡は、爽快な氣がした。少しも、孤島へ流れて來た感じはなく、かへつて、身も心も洗はれたやうな、樹林の招ぎを感じるのだ。富岡は、甲板に出て、寒い海の風に吹かれながら、いま眼の前遙に立つてゐる島を、飽きもせずに眺めてゐた。種子島は、寢そべつた島であつたけれども、屋久島は、海の上に立つてゐる島のやうだ。薄昏い夜明けの海上で、ふつと、こんな島に出くはしたら、さだめし氣味の惡いものであらうと思へた。

 明るい紺碧の海上に、密林の島が浮いてゐるといふだけでも、自然の不思議さである。船ははしけを離してしまふと、また、ヱンヂンの音を忙はしくたて始めた。海上は相當波が荒い。

 この荒い波の上を、小さいはしけは木の葉のやうに波に揉まれながら、宮の浦の淋しい岩壁へ漕ぎつけようとしてゐる。

 ゆき子も、ゆつくり起きあがつて、髮をかきつけてゐる。あきらめきつた表情で、毛布の皺の中に、コンパクトを狹みこんで、ゆき子は亂れた髮をなほしてゐた。油氣のない髮を邪魔くささうに一束にたばねて、ハンカチで結んだ。如何にも大儀さうに、クリームを顔にこすりこんでゐる。白いペンキ塗りの板壁に、海からの反射が、窓硝子を越して、かげろふのやうに、ゆらゆら動いてゐた。

 ゆき子は、がんこに、窓から外界を見ようとはしなかつた。種子島も見ないづくだつたし、いま、眼の前に屹立してゐる屋久島さへも見ようとはしない。ゆき子にとつては、どんな陸上でもよかつたのかも知れない。着いた樣子だから、身支度をするといふ、ものぐさな態度である。富岡は、ゆき子のそのものぐさな樣子を、躯の惡さから來てゐるものと思つてゐた。

 十時頃、安房の沖合へ着いた。

 小さいはしけが、大きい波にゆられながら、富岡達の船をめがけて漕ぎ寄せて來た。何時の間にか、小雨が降つてゐた。

 富岡は、病人のゆき子の肩を抱きかゝへるやうにして、急なブリッヂを降りて行つた。白い上着を着たボーイが、ブリッヂの下の方から、ゆき子を受けとめるやうなかつかうで待ち受けてゐてくれた。ブリッヂは、高く持ちあがつたり、低く、波間に吸ひこまれさうになつたりして、はなはだ危險である。やつとの思ひで、ボーイの手につかまり、ゆき子は小さいはしけの中へ滑り降りた。藁包みの荷物のわきに、ゆき子は蹲踞みこんだ。ふつと、荷物の隙間から見える、海上の向うに、魔物のやうにうつさうとした、脊の高い小さい島が見えた。ゆき子は眼を瞠り、暫く、その島をじいつと眺めてゐた。無人の島のやうだ。何もゐないぢやないのと、心でつぶやきながら、ゆき子は、その黒い脊の高い島に一種の壓迫を感じた。

 やがて、はしけは大きな波に乘つて、さつと、本船を離れた。氣持ちの惡いほど、はしけは搖れた。小雨は何時の間にか、篠つく雨となり、はしけのなかの數人の客達は、ずつぷり水浸しになつて來た。ゆき子は、富岡の外套を頭から被つてゐた。膝から下がしんしんと冷えてくる。暗い外套の下で、ゆき子は、激しく咳きこんでゐた。

 猫の額ほどの入江に、はしけが這入つてから、やつと、船の動搖はおさまつた。白い砂の洲が、雨で洗はれたやうにしめつてゐる。入江のなかは、グリン色の澄みとほつた水で、海底の岩や藻や、空罐の光りまで判然りと見えた。

 白い洲の上流は、河になつてゐると見えて、高い堤の上に、珍しい程メカニックな大きい吊橋がアーチのやうに架つてゐた。

 砂地に、四五人の人が、はしけを出迎へてゐたが、その中の二人は、營林署の人で、富岡を迎へに出てゐる人達である。

 一人は番傘を差し、一人はレインコートを引き被つてゐた。はしけの渡賃を拂つて、富岡が白い砂地へ飛び降りた。そして、ゆき子を濡れた外套ごと抱きかゝへて降ろしてやると、營林署の出迎への人は、富岡のところへ、さくさくと砂をきしませて走つて來た。

「お疲れでございませう? 奥さま、御病氣ださうでいけませんな‥‥」

 都會の人種とはまるきり違ふ、素朴な眼色をした中年の男が、番傘をゆき子の上へ差しかけてくれた。堤の上までは砂地續きである。かなり疲れて、ゆき子は、幾度も砂地に立ちどまつて溜息をついた。息苦しく、全身がかつかつと炎を噴いてゐるやうだつた。

 吊橋の上に峨々とそびえてゐた山々は、いつの間にか、乳色のもやの中へ姿を沒してゐた。

 堤へ登り、長い吊橋を渡り、見晴亭と、看板の出た、安房旅館といふのに案内された。旅館は一寸した丘の上にあり、狹いコンクリートの板道に、吊橋の太いロープが幾條も、鐵筋の支柱で支へられてゐる。

 米の配給所と運送を兼ねてゐる旅館は、旅館らしくないかまへで、陰氣な店である。暗い土間に靴をぬいで、雨でべたついた板の階段を登つて、二階の座敷に通つた。

 何處を見ても壁土のない、板壁の素朴な旅館であつた。

 富岡は、ジャケツを着こんだ、若い女中に頼んで、ゆき子の爲に、すぐ寢床を敷かせた。雨は細引を流したやうに激しくなり、廊下から見える、海も山も、一面のもやのなかに景色を隱してゐた。一寸さきも見えない、白いもやの壁である。

 その白いもやの中から、庭さきの風呂場の煙が黄ろく流れてゐた。

 蒲團を敷いて貰つて、明るい方の部屋で、富岡は、出迎への人達と、名刺の交換をした。ぬるい茶と、黒砂糖の茶菓子が運ばれた。

「こゝは、雨が多いンださうですね」

 富岡が一服つけながら、輕い箱火鉢を引き寄せて聞いた。

「はア、一ケ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね‥‥」

 レインコートを被つてゐた男が云つた。レインコートを取ると、案外若々しい男であつた。學者らしい感じだつた。