University of Virginia Library

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十一

「ボンヂゥウル‥‥」

 マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指してゐる。そんな時間なのかと、ゆつくり起きて、富岡は暫くベッドで煙草を吸つた。づきづきと頭が痛んだ。何をしたらいゝのか、一向に、躯は動きたがらない。すべてが茫々としてゐる。小禽が可愛くさへづつてゐた。ゆつくりと窓を開けると、かあつとした高原の空と、緑は、お互ひに、上と下とが反射しあつてゐるかのやうな爽凉さであつた。澁色の、光つて冷たさうな服を着た、ニウが、廣い庭隅の花畑に立つてゐた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある。長い接吻をしたあと、昆蟲のやうな笑ひ聲をたてた、ニウの心の中が、富岡には不思議であつた。思ひきりのびをして、また、ゆつくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かす事自體に無意味なものを感じる。

 富岡は、顔を洗ひに洗面所へ出て行つたが、その序に、加野の扉を叩いてみた。返事がなかつた。ノブに手をかけると、扉はニスの匂ひをさせてすつと開いた。窓は開けつぱなし、床には服をぬぎすてたまゝ、加野は茶縞のだんだら模樣のパンツ一つで、裸でベッドに寢てゐた。むきたての玉子のやうな、蒼味がゝつたすべすべした肌で、うつぶせになつて眠つてゐる。唇は開いたまゝ時々、樋に水の溜るやうないびきをあげてゐる。天地無情の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶつて起した。加野はにぶく眼を開けた。昨夜の痴情の爲か、眼が血走り、視線がさだまらない樣子だつた。

 富岡は、そのまゝ洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になつたのだ、何事もないぢやないか‥‥。昨夜の妖怪變化は雲散霧消してしまつたのだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳け上る元氣が出た。アイロンのきいた、白い半袖の上着に、ギャバヂンの茶色の長洋袴をはいて、鏡の前で苦手な髯剃り作業にかゝる。コオヒイの香ばしい匂ひが二階までのぼつて來た。教會の鐘が鳴り始める。

 身支度をとゝのへて、食堂へ降りて行くと、窓ぎはに、幸田ゆき子が、獨りで食事をしてゐた。

「お早よう‥‥」

 ゆき子は泣き腫れたやうな眼で、富岡の挨拶に微笑したゞけであつた。富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かつた。そのまま怒つたやうに、自分の席へ行き、さつさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が變つてしまつてゐる。佛像のやうな表情のない顔で、コオヒイや、トーストを運んで來る。事務所の方では、マリーの打つタイプの音が忙はしさうだつた。

 食事を濟まして、富岡は漂然と、四キロほど離れた、マンキンへ行く氣になつた。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行つた。氣持ちが屈してゐる時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相手に自問自答した方が快適であらう。――ダラットの部落々々には、大小樣々の製材所があつた。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞きながら、曲りくねつた、勾配のある自動車道を、富岡は默々として歩いた。沿道は巨大なシヒノキや、オブリカスト、ナギや、カッチヤ松の森で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあつて、朝の太陽を鬱蒼とふさいでゐた。空は切り開いた森の中を、河のやうに青く流れてゐた。人の歩いて來る氣配で、富岡が、ふつと後を振り返ると、意外な事には、幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて來てゐた。

 富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思つた。立ち停つてやつた。ゆき子は、息をはづませながら近寄つて來た。

「どうしたの?」

「私、今日の仕事、何をすればいゝンでせう?」

「仕事?」

「えゝ‥‥」

「加野君は?」

「とてもよく眠つていらつしやいますわ」

 安南人の林務官がゐる筈だが、來たばかりの幸田ゆき子には言葉が判らないのだ。

「牧田さん、何か、仕事を云ひつけてゆかなかつたの?」

「いゝえ、何もおつしやいませんわ‥‥」

 二人は自然に、マンキンの方へ歩を運んだ。富岡は默つて歩いた。ゆき子も默つて富岡の後からついて行つた。時々、軍のトラックや、自動車が通る。運轉してゐる兵隊が、日本の女を見て、はつと驚いたやうな表情で通り過ぎて行つた。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いてゐる。

 何時までも富岡がものを云はないので、ゆき子はもう一度、小さい聲で「どうしたらいゝンでせう?」と訊いてみた。

 富岡はゆつくり振り返つて、

「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、怒つたやうに云つた。

 富岡は大股に歩いてゐる。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかつた。後姿を、ゆき子は卑しいと思つた。富岡は、ヘルメット帽子を手にぶらぶら振つてゐる。音のしないラバソールの靴が氣持ちよささうだつた。ゆき子も、やつとの思ひで、サイゴンで安い白靴を買ひ、いまもそれをはいてゐるのだ。

 路が二つに岐れた。狹い人道の方へ這入つて、暫く行くと、何時の間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を竝べる位になつた。ゆき子は、あゝ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いたのかと、富岡の考へに思ひ當つた。

「昨夜は怒つたンだつて?」

「あら、何をですの‥‥」

「加野がね、幸田君がとても、僕を怒つてるつて云つた‥‥」

「えゝ、とても、こたへちやつたンです」

 富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の圖嚢から植林地圖を出して、それを擴げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼き始めた。白い地圖の反射を受けて、富岡は思ひついたやうに、胸のポケットから、薄紅いサングラスを出して高い鼻にかけた。地圖は急に薄紅く染つた。空の細い隙間から、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそゝいでゐる。富岡は、日本の女と歩く事に、何となく四圍に氣を兼ねてゐた。内地の習慣が、遠い地に來てゐても、富岡の日本人根性をおびえさせてゐるのだ。