University of Virginia Library

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三十三

 富岡は、もう一升の酒をかなり飮んでゐた。

「ダラットぢやシェリイをよく飮んだね」

 ゆき子は飯を終つて、またコオヒイを淹れて飮んだ。酒を飮んで、一人で勝手な事を云つてゐる富岡を觀察しながら、ゆき子は、一升壜の空になりかけたのを呆れて眺めた。富岡にとつては、酒は麻藥のやうになつてゐるのかも知れない。どんないゝ仕事に就いたところで、かうして、毎日酒を飮むとなれば、少々の收入では追ひつく筈もない。ゆき子は、富岡を哀れがるよりも、腹立たしいものがこみあげて來た。酒に溺れてゐるので、本氣でもの事を考へたり、相談する力が拔けてしまつてゐる。顔がぴかぴか膏で光り、佛印の時のやうな若さはもう消えかけてゐた。顔が、ひどく疲れて痩せてゐる。

「何をじろじろ人の顔を見てゐるンだ? 追ひかへすつもりかい‥‥。こゝは君の御邸宅だからね、折角のお客樣がお出でになつても、御商賣の邪魔になりますかね‥‥」

「何を云つてるのよ‥‥」

「いや、本當の話が、別れ時と勘定時が大切なンだ‥‥。人生にとつては、それさへ心得ておれば、大した災難もない‥‥。だが、さうは云ふものゝさ、人生、これ別れ辛き事のみ。敗戰のていたらくも勘定時のまづさで、これやこの逆さ‥‥。一人々々が、ゴオイング・マイ・ウェイになつたと云ふものだ」

「お喋りねえ、もう、お酒はそれだけにしておやすみなさいよ。別れ時と勘定時が大切だなンて、自分で云つてるくせに、だらだらして、何なの‥‥」

「さう怒らなくてもいゝよ。明日は右と左だ。ゴオイング・マイ・ウェイといきませう。伊香保の事は何でもないンだから、根に持たないで下さい。モンセリ・ゆき‥‥」

 おどけて、くどくどと喋つてゐる富岡の紫色の唇が、ゆき子には印象的だつた。富岡は煙草を出して、べとべとに煙草を喞へこんでは喋つてゐる。眼が濁り、髮が額にたれさがつてゐる。

「あなたつていふひとは、仕樣のない人間ね。でも、他人にはよく見えるンだからいゝわ。みえぼうで、うつり氣で、その癖、氣が小さくて、酒の力で大膽になつて‥‥氣取り屋で」

「ふうん、氣取り屋か‥‥。それから、まだあるだらう、惡い所が‥‥」

「えゝ、人間のずるさを一ぱい持つてゝ隱してるひとなのよ。いつそ、さつぱりとあきらめて、落ちこめる人でもないし、立派な策士的なところがある癖に、事業の方には、からきし頭の働かないところは、お役人的なンでせう? それで、この荒い世の中をさくさく乘り越えてゆけたら、富岡さんつて大した男だけど‥‥」

「いや、これからまだ未來があるンだ。さう馬鹿にしたものでもない。びくびくしてるやうに見せかけてはゐるが、これで、巨萬の富を得たいと云ふ慾望は、人なみ以上に持つてゐるンだがね‥‥」

「ぢやア、何故、死ぬ氣になンかなつたの?」

「君は、死ぬ氣になつた事はないのかい? 生きたいから、死ぬ事も考へるンだよ。伊香保へ行つた時の氣持ちは、その氣だつたから行つたのさ‥‥。東京へ戻つたのは、生きて、何とかなるかも知れないと思つたから戻つて來たンだ。――死ぬのは淋しいと考へたから、かうして酒を飮むンだよ。己れに勇氣のない事を見破つたから、あきらめたまでなンだ。誰だつて、一生のうちに、死を考へないものはなからうぢやないかね‥‥。只僕達は、死ぬにしても、邪魔つけな意識がぶらさがつてゝ仲々單純にはやつゝけられない。天界からみたら粟粒ほどの人間なンだが、やつぱりひとかどの理窟がついて、うぬぼれも、みえもあるしね‥‥。人間には仙人になる方法もないンだ。矛盾だらけのゴミを吸ひこんで、何とか生きの愉しみを自分でつくつてゐるまでの事だよ。その矛盾のゴミのなかには、事業もあらう、女もあらうし、政治も法律もスポーツもあるンだ。――矛盾のゴミの吸ひかげんで、運のいゝ奴と、運の惡い奴が出來て來る。――海防だつて、あの船出についちやア、隨分厭な根性の奴がゐたぢやないか。早く歸りたいから、仲間を押しのけても、船に乘りたがる。自分以外はみんな戰犯だつたやうな事を云ひ出す奴もゐるしね‥‥。人間はそんなもンだよ。正義を口にする奴ほど油斷がならんと思はないかね? 女の君をだます位は何でもありやアしない‥‥。だが、加野つて男は、あれはいゝ男だつた。正直で、何時も運の惡い奴で、そして、何時でも、自分を運の惡いものとは思つちやゐない‥‥」

「加野さんには、貴方も私もあやまらなくちやいけないわ。――じらして、からかつて、罪を犯さしたのは、私達なンだから‥‥。つかまつてサイゴンへ行く時、少しも私達を恨んぢやゐなかつたわ‥‥。でも、私は加野さんに切られちやつたけど、得をしたのは貴方よ。ずるいンだから‥‥」

「運がよかつたね。それでいゝンだよ」

「あのひと、戰爭には勝つ勝つと云つてたけど、日本へ歸つて來て吃驚したでせうね‥‥。あの時、私だつて、加野さんつて馬鹿なひとだと思つてたわ」

 酒はかなりまはつた。富岡は炬燵に寢そべつて肘枕をしてゐたが、瞼のなかに、暗い森林のやうなものが浮んだ。加野は、アフリカの森林調査と、瓦斯用木炭に關する試驗を完成して、佛印に木炭自動車の普及に貢獻した、サイゴンの農林研究所のアロアルド氏について、瓦斯用木炭の製炭法と、薪炭林の中林作業に一生をかけると云つてゐたものだが、一つの事に熱中すると、何のうたがひもなく、その仕事にまつしぐらに熱中してゆける加野の純情を、富岡はいまになつて得がたいものに考へてゐた。風のたよりでは、戻つて來た加野は、何を考へてか、一切のいまゝでの生活にそむいて、横濱で自由勞働者になつてゐるとも聞いた。だが、その話は、實際に、加野に逢つてみなければ判らない。加野のやうな男だつたら、自分の思ひ通りな事を率直にやりかねない所もある。富岡は一度、加野を尋ねてみようと思つた。

 平和條約でも濟んで、自由に何處へでも行けるやうな時が來たら、もう一度、一使用人となる覺悟で、富岡はサイゴンへ船出して行きたい氣持ちだつた。

「眠い?」

「いや、眠くはないよ。ますます眼が冴えてくるばかりだ。色々と生きる道を考へてるが、仲々だね。これから‥‥。女は如何なる場合も女だが、男は仲々むづかしい」

「女だつて大變だわ‥‥。貴方は頼りにならないし、私、一度、田舍へ戻つてみようと思つてるの、どうかしら?」

「そりやアいゝさ、田舍へ歸つて、健康なお嫁さんになるンだね。平和な生活にはいれたら、それが一番いゝンだ」

「あら、厭なひとね、お嫁さんになンてならないわ。田舍へ歸るつて云ふのは、そんな氣持ちで云つてるンぢやないのよ。私には、私の生き方があるから、さよならをしに行くンぢやないの‥‥」

「ふうーん、君の生きかたがね。そりやアさうだ。誰にだつて、生き方はあるさ‥‥。まア、それにしても、無理をしないがいゝね。一生獨身でゆくわけにもゆかないだらう」

 ゆき子は、炬燵に炭をついでゐた。ぶうぶうと火を吹きながら、

「まるで、他人みたいな事を云ふわね」と怒つたやうに云つた。

 時々省線の電車の地響きがする。昨日まで伊香保にゐた事が嘘のやうな氣がした。眼の前に、まだ富岡が寢轉んでゐてくれるからいゝやうなものゝ、實際に別れてしまへば、この小舍での生活は、一人では淋しいかも知れないのだ。さつきまでは、昏々と一人で眠りたいと考へてゐたのだけれど、いまはまた、氣持ちが變つた。お互ひの素性を知りあつたもの同志が、一つところに寄りあつてゐる事は慰めだつた。

「煙草ないかい?」

 富岡が手を出した。ゆき子はハンドバッグから光の箱を出して、その手に渡した。そして炬燵の上に轉つてゐる、二つのさいころを手にとつて、ゆき子は暫く、そのさいころを振つて自分勝手な事を考へてゐた。何をして働くべきかゞ重くかぶさつて來る、事務的な才能もいまはなくなつてゐる。まして女中にはなれない。細君になるのも嫌だつた。何かをしなければ飢ゑてしまふ。どの仕事を選ぶべきかとゆき子はさいころを振りながら、寒い風に吹かれて、街の女になつてゐる自分の姿をひそかに空想してゐた。