浮雲 (Ukigumo) | ||
六十三
何時までも、宿屋住ひも出來なかつたので、四日目に、雨の霽れ間を見て、ゆき子は、官舍まで、タンカで運ばれて行つた。島の人達は、何事なのかと、運ばれて來る、タンカを覗きこんだ。
久しぶりに見る、青い空である。陽も射してゐる。兩側から差しよつてゐる樹木が、陽にきらきら光つてゐた。眼を開けてゐられないほど、まぶしい空の色である。冬の空とも思へないほど、青々と暖い色だ。
うねりくねつた道を、タンカは波になつて運ばれて行く。人聲のないところで、眼を開けると、鷄がけたゝましく、人家へ逃げこんでゐる。町らしい町もない、部落の家々は、ほんの少し雨戸を開けてゐるきりで、まるで、佛印の安南人の部落そつくりだつた。ゆき子は頭を左右にまはして、不思議さうに四圍を眺めた。どの家も、雨戸を閉してゐる。榕樹に似た巨きい樹のトンネルをくぐると、すぐ富岡の聲がした。
「やア、御苦勞さま‥‥」
玄關の戸が、軋みながら開いた。タンカは躓きながら、家の中へ這入つて行つたが、天井の板は汚點だらけで、板壁には新聞紙が張つてあつた。ゆき子は、こゝが官舍なのかと、眼を瞠つてゐる。
晝から、富岡は、トロッコで山へ行く事になつてゐた。一晩山で泊つて、明日の夕方、富岡は戻つて來るのだ。戰爭未亡人だといふ子連れの女を、手傳婦に頼んであつたので、その女が、留守中のゆき子の面倒をみる事になつた。
何處で手に入れたのか、割合さつぱりした縞木綿の蒲團が敷いてあり、鹿兒島で買つた毛布が、敷布になつてゐた。疊はふちのない坊主疊。箱火鉢には、新しいニュームのやかんが湯氣を噴きあげてゐる。
宿からとゞいた晝食を濟まして、富岡はゲートルを卷き、山行きの身支度をして、出て行つた。レインハットをかぶり、汚れたレインコートを羽織り、しぼんだリユックを肩にしたところは、身支度の板についた山林官の姿である。スキー服で身を固めた登戸が迎へに來たので、富岡は、手傳婦に後を頼んで出掛けて行つた。全く、珍しくいゝ天氣である。
「こんなお天氣のよい日は、めつたにございません‥‥。氣持ちが晴々します。奥さま、お粥が出來てをりますが、召し上りますか?」
手傳婦は、血色の惡い顔をしてゐる。腹に蟲でも湧いてゐるやうな、蒼黒い眼であつた。都和井のぶと云つた。良人が戰死して、九年になるのださうだ。
ゆき子は少しも食慾はない。
只、眼を開いて、雨戸の隙間から青い空を眺めてゐた。富岡が冗談らしく、何處にも女はゐるのだと云つた一言にこだはつてゐる。あの男は、このまゝ圖太く生き殘つてゆくに違ひない。だが、ゆき子は、もう、何年も生きてゆける自分ではないのだと、心ひそかに思ふのであつた。近くの山で山鳩が啼いてゐる。硯の肌を見るやうな紫色の、けづり立つた山が雨戸の隙間から見えた。
「小杉谷つて、よつぽど遠いのかしら‥‥」
ゆき子が、のぶに尋ねてみた。ぽんかんの汁を絞つてゐたのぶは、むくんだやうな顔を擧げて、「さうですねえ、二時間半位はかゝりませう。途中の大忠岳までが、一時間位のものでございますから‥‥。それにしましても、いま小杉谷は、大變な雪ださうでございますから、旦那さま、お寒いでせう」と、云つた。
標高七百米の小杉谷の斫伐所附近では、平均氣温が、十六度に下り、十二月から、春三月頃までは、積雪してゐるところである。
峨々たる高山の連なりのせゐか、一日中に、晴曇雨が交々に來るところで、颱風の通路にあたるせゐか、屋久島は一年中、豪雨に見舞はれ、村の財政は、窮乏に追ひこまれ、治水對策が、はかばかしく運ばれてゐないところであつた。
島の主要な財源は、五月の飛魚と、甘藷と、甘蔗と、林業である。
屋久島は、屋久杉で有名なところであつたが、こゝの杉材は、河川を利用して、河口へ押し出すといふわけにはゆかないので、全部トロッコ運搬に寄らなければならなかつた。
一年中、雨と霧に卷かれてゐる杉は、年數をかなり經てゐるせゐか、水には浮かないのだ。トロッコで押し出した杉の原木を、船に積み込む時、一本でも海中に沈めたら、そのまま浮き上る力のない重量を持つてゐる。
「こんなに暖いところで、そんなに雪が降るンですか?」
「はい、小杉谷は、三月頃まで、スキーの出來るところなのです」
「あなたは、登つた事があるの?」
「いゝえ、途中の大忠岳までしか、行つた事はございません」
急に空が暗くなつて來た。
硯のやうにそぎ立つた山頂に、霧がまき始めた。ゆき子は、その山頂の霧の動きを見てゐるうちに、何とも云へない、悲しみを感じてゐた。かうした景色だけでは、自分のやうな人間は育たない氣がした。一度、ぜいたくな事を知つたゆき子には、天井の汚點や、新聞紙を張つた板壁には耐へられないのだ。東京へ戻れば、あらゆる文明が動いてゐる。だが、池袋のあの物置小舍の生活はどうなつたらう‥‥。ジョウといふ男の思ひ出が、いまごろになつて、なつかしくゆき子の瞼に浮んで來た。大きい枕を抱へて來てくれたジョウが、寢物語りに――懷しき君よ。今は凋み果てたれど、かつては瑠璃の色、いと鮮かなりしこの花、ありし日の君と過せし、樂しき思ひ出に似て、私の心に告げるよと、持つて來たラジオのスイッチからもれる、忘れな草の唄を、うたつてくれたものであつた。
その、小さいラジオを眼にとめて、富岡が、ダンス曲でも聽かせてくれと云つたが、ゆき子は、わざとダイヤルを戰爭裁判の方へまはしたものだ。二世の發音で、
「貴下、その時、どうお考へでしたか?」
といつた丁寧な言葉つきが、ラジオから流れると、富岡は、そんなラジオは胸が痛いから、アメリカのジャズでも、聽かしてくれとせがんだ。ゆき子は、むかつとして云つた。
「私や貴方もふくまれてゐるのよ、この裁判にはね。――私だつて、こんな裁判なンて聞きたくないけど、でも、現實に裁判されてゐる人達があるンだと思ふと、私、戰爭つてものゝ生態を、聽いておきたい氣がするのよ」ゆき子は、ジョウと知りそめた時が、十年も昔のやうな氣がした。いまごろは、あの外國人は故郷へ戻つてゐるかも知れない。二人の言葉は充分ではなかつたが、お互ひの肉體が、お互ひの心を了解しあつてゐた。富岡が、皮肉を云つた時、ゆき子は、「貴方が、佛印で、ニウを愛したやうなものよ」と反駁したものだ。
考へてゐるうちに、ゆき子は、昔のすべてがなつかしかつた。ジョウとのつながりは、お互ひに、心を詮索しあふ必要のない明るさがあり、責任らしきものを喋りあふ、深刻さを持ちあはさないで濟む氣樂さがあつたからだと思つた。
浮雲 (Ukigumo) | ||