University of Virginia Library

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五十一

 十二時の時計が鳴つた。富岡は朝湯に入れて貰つた。五六日も風呂にはいつた事もない貧しい生活から、解放された氣がした。コバルトタイルを張つた、小さい浴槽いつぱいに湯は溢れ、白い外國石鹸で躯を洗ひながら、富岡は、痩せさらばへて死んでいつた妻に對して、不憫な氣もしてゐた。小さい窓に雪の降りこめてゐるのを眺め、富岡は、尨大で威嚇的な人間社會の切斷面を覗いた氣がした。自分の心は何處にもない。ひろびろとした雪の野原を、目的もなくさすらつてゐるやうな荒凉としたおもむきが、現實の足の裏に吸ひついて來る氣がした。しゆんしゆんと音をたてゝガス釜が燃えてゐる。

 柔い蒸氣に顔をなぶられながら、富岡は、鏡のなかを覗きこんで髯を剃つた。伊庭の使ひつけの安全剃刀なのであらうが、毒食はゞ皿までの心理で、じよりじよりと、富岡は、心にひやりとする刃を頬にあてゝゐた。把捉しがたい樣々の世を渡つて、こゝに行きついた人間の、卑しさが、富岡には苦味いものでもあつたのだ。人間は、單純なものであつた。些細なことで、現實はすぐ變化する。案化傷ついてもゐない。すぐ、起きあがつて微笑む。――ゆき子は、時計を見上げ、をばさんがなかなか戻つて來ない事に安心してゐた。いつも使ひの遲いをばさんであつたが、今日も案外遲い。一時には、教會へ行つて、大津しもと事務を代らなければならない。ゆき子は、今日こそ、あの金庫の中のありがねを全部さらつて來なければならぬと決心してゐる。

 教主の成宗專造の寢部屋に大金庫があつて、そこには、教會の全財産がかくされてゐたが、受付の小金庫には、二三十萬の金が、いつも溜つてゐた。このごろの大日向教は、ますます隆盛で、寄附も盛んに集り、清診料もぐんとふえて來てゐた。奉仕の間には、季節の果實や、野菜や、反物が山をなして積み上げられてゐた。

 晝の食事をとゝのへ、伊庭の飮み料にしてゐるサントリウイスキーを卓上に竝べた頃、富岡が活々した血色で風呂から上つて來た。甲斐々々しいゆき子の姿を、富岡は不思議さうに眺め、二人だけの歡びが、ひそかに營まれてゐるのを盜人の心理で眺めてゐた、二階では犬がやかましく吠えてゐる。富岡は炬燵にもぐつて、かすかな目まひを感じてゐた。ウイスキーを二三杯あふつた。全身を刺戟する酒の味が、鎖沈した富岡の氣持ちを幾分か明るくした。

 やつとをばさんが戻つて來た。見知らぬ客を見て、をばさんはとまどつてゐたが、その客をあしらふゆき子の態度から、をばさんはこれが漆の旦那だなと思つた樣子だつた。ゆき子は箪笥から、二萬圓の金を出した。ほんの一寸、惜しい氣もしたが、氣前よく、新聞に包み、富岡の座蒲團の下へ押し込んだ。富岡は眼で感謝した。

 一時に、教會へ行くゆき子と、富岡は一緒に戸外へ出て行つたが、ゆき子はゆつくり歩きながら、

「貴方は、これから、どうするつもりなのよ?」と、聞いた。

「どうするつて、御覽のとほりだ。どうにもならない。この金も、さつそくには返せる當もないよ。いゝかい?」

「えゝ、いゝわ。そんな事はいゝンだけど。やつぱり、目黒の、あの部屋にゐるの?」

「あゝ」

「ねえ、もう一度、逢ひたいけど‥‥」

 ゆき子は、別れがたない氣がした。邦子が亡くなつてみれば、もう、誰にも遠慮なく、富岡とも一緒になれるやうな氣がした。だが、まだ、これから棺桶を買ひに行く富岡をつかまへて、一緒になる話は、さしひかへなければならない。富岡は、もう一度逢ひたいと云はれて、ゆき子の氣持ちは充分判つてはゐたが、何故かそこまで話しあふのも億劫だつた。まして、自分の生活能力のない現在では、ゆき子に、何一つ要求出來るものでもないのだ。

 田園調布の驛で、二人は奥齒にものゝはさまつてゐる感じで別れた。

 ゆき子は雪道を、伊庭の長靴をはいて、教會へ行き、大津しもと事務を代つた。大津しもは、今日、教主と二人で熱海へ行く事になつてゐる。ゆき子は電氣座蒲團に坐り、暫く庭の雪景色にみとれてゐた。雪は降つてはゐなかつたが、鉛色の空から、石油色の寒々とした空が透けてゐた。富岡の貧しさが、哀れでもあつたが、生活力のなくなつてゐる男へ對しての魅力は薄れかけて來た氣がした。あの時、自分の背中の金庫から、あり金をさらつて、富岡と逃げたい氣持だつたものだが、いまは妙に落ちつき、ゆき子は、まだ、二三時間はものを考へる時間があると思つた。受付には電氣がついてゐた。伊庭は、内輪な信者と、教主の部屋で、酒を飮んでゐる樣子だつた。講堂には、素朴な信者が、二十名ばかりおこもりをして、冷い板敷に坐りこんで祈祷をあげてゐる。

 電氣蒲團で腰があたゝまつて來ると、ゆき子は、富岡の荒々しいあの時の力を、微笑して思ひ出してゐた。何時までも心の名殘りになるやうな、あの時が、肉體の一點に強く殘つてゐるその事を考へると、富岡に對して平靜にはなれなかつた。富岡のすべてに惹かされる愛情が、自分の血液を創るための女の最後のあがきのやうな氣もして來て、富岡にだけは、その愛情が安らかに求められる思ひがした。昇騰する心の波はまた、背後の金庫へ向つて行く。ゆき子は金庫へ向つて鷲のやうに手を差しのべてゐるのだ。金は湯水の如く金庫へ流れこんで來たが、ゆき子にとつては、平凡な、退屈な毎日であつた。思ひ煩ふ事が、拭ひきれないやうな、奇妙な生活から退いて行きたかつた。こんな一隅で、頑張つてゐるには、ゆき子は淋しすぎた。

 ゆき子は、何氣ないそぶりで、今日の寄附帳を眺め、案外大口な寄附のあつた事を知り、金庫を開けた。約六十萬近い札束が這入つてゐた。

 四五日で、この位の金が、金庫に溜るのは何でもない事であつたが、今日眺める金は、ゆき子にとつては、相當手ごたへのある金であつた。大津しもは、ちやんと計算して、教主と伊庭に報告してゐるので、その金は、どうにもならないものであつたが、ゆき子はその金を、夕方、奥へ持つて行く氣にはなれなかつた。成宗の寢所にかくされてゐる大金庫は、毎夜開けるわけにはゆかなかつたので、何時も、日曜日の夜、開けられる事になつてゐた。今日は日曜日である。一週間分の收入を全部、成宗と伊庭がひそかに計算する日だつたが、今夜は教主も留守になるので、大金庫はあるひは月曜日に開く事になるかも知れないのだ。さうすれば、二日のよゆうがあるとみなければならない。

 ゆき子は色々口實を空想してみた。自分が逃げ出したあと、をばさんが、不思議な來客のあつた事を、伊庭に報告するであらう。ゆき子は、あれこれと考へに疲れて、講堂へ行つてみた。祭壇に、電氣ローソクが賑やかにとぼり、おこもりの信者達は、聲をあげて祈祷をしてゐる。

「をのをの世界の境を一つにして、人間はまことのこゝろ交ふが道なり、世界のひと、いづれの行も足りず、たゞ迷ひ、たゞにさすろふものなり‥‥。大日向さまは、地獄よりこの人々すくひ給はんとて、娑婆の業を人間に與へ給ふなり。他力をたのみて、眞實報土のこゝろなくば、この人々地獄への往生をとぐるものなり。方蓮華經‥‥。あなかしこやな、大日向神しろしめすところ、闇も消え、白日輝き、人々闇にさすろふをせきとめ給ふ‥‥」

 ゆき子は、信者の合唱を聽きながら、板敷きに坐つた。じいつと、合掌して、眼を閉ぢてみたが、もどかしい氣持ちが糸のやうにもつれ、少しも落ちついた氣分にはなれない。眼の前に、手ごたへのある札束がちらついて仕方がない。頭の上にも、眼の前にも、神の姿は現はれなかつた。伊庭の口にする大日向教のエーテルさへも拜む事が出來ない。神は何處にもゐない。たゞ廣々とした板敷の上に、ノアの箱船のやうな、人々の集りだけが、陰氣な眺めだつた。伊庭が眞赤な顔をして、講堂に這入つて來た。めつきり色艶をなし、見るからに堂々とした躯つきで、ひとまはり、祈祷の信者達を眺めまはすと、縁側の硝子戸を引きあけて、庭へかつと唾を吐いて、そしてまた手荒く硝子戸を閉めた。ゆき子が、入口の方へ坐つてゐるのを見て、伊庭は滿足した樣子で、また、のつしのつしと奥の方へ引つこんで行つた。信者は、手のかゝらない幼兒ででもあるかのやうな思ひで、伊庭の後姿は自信あり氣に消えて行つた。ゆき子は、電氣ローソクの輝く祭壇を眺めた。紫の幕の向うに、鏡が光つてゐる。そのあたりに、もしかしたら、神の姿でも現はれては來ないものかと、ゆき子はじいつと睨みすゑてゐたが、怪しい影すらも寫らない。庭の芝生の雪は、光淋風に圓くとけて行つてゐる。風が出たのか、硝子戸がぎしぎしと鳴つた。

 富岡の事を考へると、ゆき子は、今朝の快樂が、しめつけられるやうになつかしくてたまらなかつた。