University of Virginia Library

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二十六

 富岡は煙草に火をつけながら、心を掠めるやうなものを感じた。自分がこの女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も變りはないのだ。世の中へ絶望したとか、何か云つてはゐるが、そんなところに、説明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考へてゐるものでもない。たゞ、それだけのものだと云ふだけだ。だが、その、何とも感じてくれない世の中に揉まれて、生き辛さの爲に、自分の死場所を求めて歩いてゐる人間と云ふものも、全く妙な存在だと、富岡は、寢床に腹這ひ、闇の中に光る、煙草の火を、呆んやりみつめてゐた。

 結局は、強烈な享樂によるか、絶望して死ぬかの二つの方法だが、絶望すると云ふ事はどうも世の中へのみせかけのやうなもので、たとへ、何かのはづみに死を選んだにしたところで、念頭に、絶望なぞ少しも感じないで死ぬに違ひないのだ。富岡は苦笑してゐた。この深い暗さは、何時までも長續きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる旅行者の、旅のなごりが、衣ずれのやうに闇の中に動いてゐた。

 此の部屋で、女と誓ひあつた男もゐるかも知れない。蒲團をおしつけられるやうな氣がした。すると、隣りの蒲團で眠つてゐるゆき子が、うゝうゝ、とひどくうなされて、呻つてゐる。その呻り聲を、富岡は暫く聞いてゐたが、富岡はたまらなくなつて、煙草を手探りで灰皿の中へにじりつけると、枕許の行燈型のスタンドをつけた。

 急に四圍が明るくなり、深い闇が去つた。

「おい、おい、どうした?」

 ゆき子の枕を、富岡は引つぱつた。ゆき子は向うむきになつてゐたが、眼を覺して、くるりと、スタンドの方へ寢返りを打つた。

「あゝ、厭な夢を見たわ。とても、妙な怖い夢だつた‥‥」

「馬鹿にうなされてゐたね‥‥」

「さう、厭な夢なのよ。血みどろになつた、皮をはがれた馬に追ひかけられてたのよ。何處まで走つても、すぐ追ひかけられちやふのよ‥‥。何だか、青い着物を着た、顔のない人間が、その馬に乘つてるのよ。苦しくて、苦しくて、助けてッて云つても、聲も出ないンですもの‥‥」

 富岡は炬燵のなかへ足をのばした。ほかほかと埋火が暖い。ゆき子は、スタンドの燈火をまぶしさうに眺めながら、「今日はお正月ね‥‥」と云つた。

 長い間、かうして、二人は、此の宿で暮してゐるやうな氣がしてゐる。たつた三晩しか泊つてゐないのだが、昔からかうして、二人は暮してゐるやうだつた。富岡は因縁深いものを感じてゐる。戰爭さへなければ、此の女にも相逢ふ事もなかつたらうし、佛印のやうな遠い處にまで行く事もなかつたのだ。いまごろは實直な官吏として、役人生活をしてゐるにきまつてゐる。だが、この戰爭は、日本人に多彩な世界を見學させたものだと思ふ。――富岡は、煤けた天井を眺めながら、地圖のやうな汚點をつけて、ふつと、ユヱの街を思ひ出してゐた。驛から街の中心へ向ふ街路に、樟の若芽が湧きたつやうな金色だつた。香水河と云つたユヱ河に添つた遊歩道には、カンナや鐵線花が友禪のやうに華やかだつた。椰子、檳榔、ハシドイが、到る處に茂つてゐる。赤褌一つのモイ族が、二三羽のインコを籠に入れて、遊歩道で賣つてゐたのを、富岡は思ひ出した。

 なつかしいダラットの生活が、織物の飛白のやうに、一つの模樣になつて記憶のなかに燒きついてゐた。ユヱの山林局にゐた局長のマルコン氏は、いまごろは、また、あのユヱに戻つて、悠々と露臺で葉卷でも吸つてゐる事だらう。日本の軍隊に厭な思ひをしたに違ひないマルコン氏の好人物な顔が、富岡は、なつかしい人として思ひ出に殘つてゐた。マルコン氏は、一九三○年に森林官として、佛印に渡航して來た。佛蘭西のナンシー山林學校を出た人物である。若い、何も知らない、田舍者の、禮儀知らずな、日本の山林官である、富岡達に、心の中では随分をかしなものを感じてゐたに違ひないのであらうが、マルコン局長は、城あけ渡しの時も、非常に立派な態度であつた。富岡にはとくに眼をかけてくれて、よく、佛印の林業に就いての説明を事こまかに教へてくれたものであつた。

 佛印の山林は、巨きな虎にとり組んでゐるやうなものだと思はなければならないと、マルコン氏はよく云つてゐた。佛印の山林の何たるかも判らないで、何の豫備知識もなく、軍の命令で遠征した富岡達は地圖の上だけで、平地の松林のやうな疎林を空想して出掛けてゐたのだ。

 マルコン氏のユヱの私邸によばれた時、富岡は、庭にある樹木の名前をみんな知つてゐるかと問はれて、富岡はビンロウ樹さへも云ひあてる事が出來なかつた。リム、タガヤサン、ボウデ、キェンキェン、サオ、ヤウ、ベンベン、バンラン、一つ一つ指差して、マルコン氏はその樹木の産地や性情を教へてくれた。

 佛印の山岳地帶は、雨も多いので、森林も廣大なもので、自分は長い間、こゝに來てゐるが、まだ山岳地の森林に就いては研究も淺いが、いたづらに伐り出す前に、よく、林質をたしかめてからにして貰ひたいと、マルコン氏は願望すると云つた。とくに、山地の蠻人の燒畑開墾は、原生林の状態を、相當蠶食してゐるので、これも、考へてほしい事だと云つた。北部安南の、ビンや、タンノアの兩州は、とくに、日本軍の開發が多いと聞くが、中部地方は、これは山脚がすぐ海にはいつてゐるので、地勢は急峻で、流筏の便のある河川に乏しく、只、樹木を伐るだけでは、開發しても容易に持ち運びは出來ないらしい。北部と南部だけが、地勢がゆるやかなので、流筏の便利はあるが、その一方的な利用の仕方は考へなくてはなるまいと注意も受けた。造林事業と云ふものは或る意味で、戰爭とは別箇のものだと、マルコン氏は心配さうに云ふのである。

「ねえ、あなた、覺えてゐる? ツウランのそばの何とかつて、日本人の墓地にお參りした事もあつたでしよ?」

 富岡は、記憶のさすらひから、急に引き戻されたやうな氣持ちで、天井の汚點から眼をそらして、ゆき子の方へ顔を向けた。

「あの町、何て云つたかしら‥‥」

「ヘイホつて町かい?」

「さうさう、ヘイホつて町だつたわ。加野さんと、私と、あなたと、三人でヘイホの町へ行つた事あつたわね。三日位の旅だつたかしら、加野さんは焦々して、ずつと、私達を看視してたぢやない? その看視の眼をくゞつて、二人で、眞夜中に逢つてたわね。二人とも狂人みたいだつたわ。覺えてゐる?」

「あゝ、覺えてゐるよ」

「並木はフクギつて樹だつたでせう? こんもりした老樹で、自動車をとめて休んでゐると、子供達が、トンボ・ヤポネーゼつて寄つて來たわね。私、あの時ね、コンパクトで鏡をのぞいて、一流の美人に生れて來ないのを殘念に思つた位よ。だつて、子供達は、女の私なンかに興味もないやうな樣子で、脊の高いあなたの方へばかり、何だか、おしやべりしてゐたわ‥‥。墓地へ行く道に、巨きな仙人掌が繁つてゐて、いまでも、私、よく覺えてゐるのよ。山田五十鈴位の美人だつたらもつと、あの旅はよかつただらうと思つたわ」

 ゆき子は、妙な事を云つた。