University of Virginia Library

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三十一

 三日ばかり、富岡達は厄介になつたが、ゆき子は東京へかへるのを急ぎ始めた。女の敏感さで、ゆき子は、おせいに何となく反感を持ち始めてゐた。いよいよ明日は伊香保を發つと云ふ日の夜、別れの宴を張つて、その夜はまた亭主は、おせいにそゝのかされて酒をはづんだが、ゆき子は、あまり酒を飮まなかつた。最初の夜の深酒がたゝつて、何時までも頭が痛く、胃も重かつた。おせいが、さかんに酒をついでよこしたが、ゆき子は、ひそかに灰皿を引き寄せて、灰皿へ酒をあけた。そのくせ醉つた眞似をした。富岡は眼を閉ぢて時々安南の唄をくちづさんでゐる。ゆき子はうかゞふやうに、時々おせいの表情を眺めた。最初の夜のもうろうとした女のお化けが、おせいのやうにも思へて來た。何故、襖ぎはに立つてゐたかゞ謎でもあつた。亭主はもういゝ氣持ちになり、鼻水をすゝりながら、東京へ出て一旗あげたい話をしてゐる。

「本所の燒跡に、一杯屋でも建てたいンだが、坪二滿兩としても、十坪ぢや相當なもンだしね。それに仕入れとなれば、三十萬は用意しなくちやならねえし、仲々、これで今日、容易な事では、東京住ひもむつかしいつて聞くンだが‥‥。と云つて、何時までも、こんな事をしてもゐられねえし、居拔きのまゝ賣りに出してるンだが、何しろ、夏場のところで、それまで命をつないでゆく根氣はねえし、いつそ、築地の兄弟分のところへ、二人で轉げこんで行かうなンて話してもゐるンですがね」

 富岡は時々眼をあけて相槌を打つやうに返事をしてゐたが、人の話なぞどうでもよかつた。萎縮した無氣力さで、盃を唇へ運んだ。亭主は、無口な謙遜家の富岡がすつかり氣に入り、何事も相談したい樣子で、現在のこの商賣にはほとほとおせいと一緒に、飽きが來てゐるのだと云つた。風はなかつたが、底冷えのする寒い夜だつた。珍しく按摩の笛が窓の下を通つた。

 富岡は如何にも思ひついたやうに、

「さて、湯に這入つて來るかな‥‥」と云つた。

 すると、おせいがすぐ立つて、シャボン箱と手拭を取つてやり、「私も一風呂あつたまつて來よう」と云つた。

「あら、ぢやア、私も一緒に行きませう」

 ゆき子が何氣なく、富岡の後から立ちあがると、おせいは急に不服さうな顔をして、

「さうですか、それぢやア、お二人で行つてらつしやい」と云つた。

 ゆき子は、ぴいんと額に小石を投げられたやうな厭な氣持ちで、おせいの荒々しさを眺め、階段を降りて行く、富岡の後へついて行つた。

 下駄をつゝかけて、裏口へ出て行くと、肌を射すやうな冷い空氣だつた。

「おせいさんつて、妙な女ね。貴方が好きなのぢやないの? 何だか變だわね‥‥」

 ゆき子が嘲ひながら、かまをかけるつもりで、富岡の後姿へ話しかけたが、富岡は狹い石段を降りて行きまがら、「へえ、さうかい」とへうきんな返事をした。

「あのお猿さん、相當の浮氣者だわ‥‥」

「さうかね‥‥」

「あら、さうかねつて、貴方は、何時でも女にはよそよそしくしてゐて、女をちやんと掴んでしまふンだから‥‥」

「別に、あのお猿さんを掴んぢやゐないぜ。馬鹿な事は云はないでくれよ」

「でも、興味はないわけぢやないでせう?」

「ないね‥‥」

「さうかしら。私が、湯に行くつて言つたら、急にぷりぷりしだしたの變ね。貴方に惚れてるのよ。――馬鹿にサービスがいゝわね。貴方にだけ‥‥」

「ほう。そりやァ、いま初めて氣がついた。もう四五日厄介になるか」

「さうね。それもいゝわね」

 二人はくすくす笑ひながら、米屋の大湯へ這入りに行つた。七八人の浴客が高聲で闇米の相場を話しあつてゐた。團體客でゞもあるらしく、二人ばかりの藝者らしいのも混じつて、客の背中を流してやつてゐる。流して貰つてゐる男が時々仲間に冷やかされてゐる樣子で、湯殿は仲々賑やかであつた。

 富岡は何氣なく、ゆき子の裸を見たが、おせいのやうに立派な肉體でないのが哀れに思へた。若い藝者ばかりのせゐか、ゆき子の肉體は何となく凋落のきざしをみせてゐる。そのくせ、脚はすくすくとして、胴との均整がとれてゐた。ゆき子は勝手に躯を洗ひ、藝者のやうに、男の背中を流すと云ふ心づかひはしなかつた。――ゆき子は早々と湯から上つた。洋服をぬいだ籠のところへ行くと、竝べて置いた富岡の籠のものが、何時の間にか、青い木綿の風呂敷包みになつてゐた。違ふ籠ではないのかと、四圍を眺めたが、富岡の衣類の籠は見當らなかつた。そつと、風呂敷の隅から衣類をのぞいてみると、妙な事には、その包みは富岡のものがそつくり包まれてゐる。軈て富岡が上つて來た樣子だつたので、ゆき子は服を手早く着て、鏡の前へ行き、髮をときつけにかゝつた。鏡のなかに寫る富岡は、風呂敷包みに一寸ばかりとまどひした樣子だつたが、すぐ、素知らぬ顔で、風呂敷をといてゐる。何となく、籠の中をたんねんに探してゐるやうだつたが、暫くして、ちらと、ゆき子の方を振り返るやうにして、富岡は新しいパンツをはいた。ゆき子には、その眞白いパンツが不思議だつた。富岡は忙はし氣に服を着て、風呂敷を小さくまるめてポケットにしまつた。ゆき子は何も彼もが不思議でならない。

「ねえ、風呂敷包みになつてるなンて變ね」

 ゆき子が冷やかすやうに、鏡から離れていつた。

「誰かゞ包んでくれたンだらう‥‥」

「新しいパンツも持つて來てくれたのね。古いのはどうして?」

 富岡は返事もしないで、さつさと、湯殿へ手拭を絞りに行つた。ゆき子はかちんと心へ觸れるものがあつたが、富岡が戻つて來ても、何も云はないで寒い廊下へ、先になつて出て行つた。

 ――逃げてゆかうとしてゐる男の心を、かうした事で、時々見はぐれたのだと、ゆき子は、自分自身にも判然りと云ひ聞かせるつもりで、富岡との思ひ出ばかりに引きずられてゐてはならないと思つた。我慢の出來ない淋しさだつたが、ゆき子は當分獨りで生きてみるつもりだつた。弛んだ氣持ちのまゝ、引きずられてはゐられないと、自分の心に云ひきかせてみる。

 二人は默つたまゝ、石段を登つた。星屑がまるで船の燈火のやうにまたゝいてゐる。ゆき子は氣を紛らせるつもりで、かすれた口笛を吹いた。瞼に突きあげて來る熱いものを、時々外套の袖でこすりながら、海防から戻つて來た時の、心の渇きが、急にいまごろ涙になつて、とめどなく頬に溢れた。日本へ戻つて來て、いつたい何が自分達をこんな風に、無氣力な淋しがりにしてしまつたのだらう‥‥。一つ一つ石段を登りながら、ゆき子はうゝと突きあげて來る涙にむせてゐた。

「どうしたンだ?」

「どうもしないわ‥‥」

「うたぐつてるのか?」

「何を?」

 ゆき子は激しい怒りが襲つて來たが、その怒りはすぐ口に噴きこぼれないうちに、胸のなかで淡く消えて行つた。昂奮は少しづゝ沈んで來た。石段を登りつめると、家の横から表通りへ出る路地があつた。

「少し歩いてみようか?」

「風邪をひくといけないからよしませう」

 富岡は立停つて、纒りのない小さい聲で、「君は神經衰弱なンだよ」と云つた。さうしてまた早口に、

「いや、僕の神經が弱つてゐるんだ。落ちつかないのは僕の方なンだ。すぐ溺れたがる。孤獨ではゐられなくなつてゐるンだね‥‥。どうにもやりきれないから、このまゝ沈下してゆくンだよ。――手當り次第に勝手な方向へ歩きたくなつてゐる‥‥。いまも、勝手な事を考へてゐたンだ」

 と、云つて、富岡は棒のやうに凍つた手拭を、まるでステッキのやうに肩にかついだ。

「冷えちやふわ。兎に角、家の中へ這入つて、さつさと寢かせて貰ひませう‥‥。明日朝早く、私、こゝを發ちたいンですから‥‥」

「君だけ歸るやうな事を云つてるぢやないか‥‥。僕も歸るよ。一緒に來たンだもの、一緒に歸らなくちやいけない」

「えゝ、そりやアさうですけれど‥‥。貴方つて、大變な方なンだから‥‥。もう、こんな事はどうでもいゝわ。よしませう。私、足がぶるぶる震へて來たわ‥‥」

 二人は、裏口から二階へ上つて行つたが、隣りの部屋では亭主が鼾をたてゝ眠つてゐた。おせいはゐなかつた。富岡は茶餉臺の徳利を取つて耳にあてゝ振つてゐたが、酒が殘つてゐたとみえて、冷えた酒をコップにあけて、咽喉を鳴らして飮んだ。おせいが亭主の寢床にゐないと云ふ事は、温泉から戻つて來た富岡やゆき子に、多少の効果はあつた。二人は二人なりに、それぞれの思ひで、おせいのゐない事を氣にしてゐる。ゆき子は冷えこんだ足を炬燵に入れて、明日、東京で富岡と別れてからの生活を考へてゐた。池袋の生活は、この一週間あまりの不在で、一切が片づいてゐるやうな氣もした。