浮雲 (Ukigumo) | ||
九
幸田ゆき子は暫くたつても戻つて來なかつた。富岡は扇風機の風に吹かれて、椅子の背に頭を凭れさしたまゝ眠つてゐる。
加野は扇風機をとめた。そして、靜かに食堂を出て行つて、ゆき子を探しに戸外へ出てみた。ヒガンザクラのこんもりした暗い並木のあたりで、夜烏が啼いた。濡れて、ぴたりと動きがとまつたやうな空だつた。淡い燈かげが、樹間にちらついてゐる。山林事務所のすぐ下の方に、華僑の別莊風な、でこでこした建物があつた。暫く人も住まないと見えて、庭は荒れてゐたが、南洋バラとでもいふのか、雪のやうに小さい花をつけた、生垣の中に、かすかに歌聲が聞えた。日本の歌だ。あつ、このなかにゆき子がゐるのだなと、加野は芝生の方から這入つて行つた。虫がしきりに啼きたてゝゐる。背中の反つた、ゆつたりした木のベンチに、ゆき子が腰をかけて、歌つてゐる。
ゆき子は加野だと判つてゐた。歌をやめて、暗い庭を透かすやうにして、立ちあがつた。
「どうしたの? 怒つたの?」
「何でもないのよ‥‥」
「歸らない? 夜霧にあたつちや毒だ。こんなところで、蚊にでもさゝれて、病氣しちやァ毒だよ‥‥」
「あとで、一人で歸ります‥‥」
「あいつはね、いゝ人間なンだけど、毒舌家なンだ。一つは神經衰弱もあるかも知れないね‥‥」
加野は、ゆき子の肩へ手をかけたが、薄い絹地をとほして、案外柔い女の肉づきに、全身が熱くなつた。酒の醉ひがまはつたせゐか、自制するにはあまりに辛く、加野はゆき子の柔い肩の肉を、二三度熱い手でつかんだ。ゆき子は、くるりと加野の手をすり拔けたが、ゆき子自身も、自制出來ないやうな胸苦しさになつてゐる。本能的に、毒舌家の富岡を、ひどいめにあはせてしまひたいやうな、反抗の氣が湧いた。こんな、白い肉の男なぞ、少しも興味はないのだ。ゆき子は默つて立つてゐた。加野は、もう一度、不器用に、ゆき子のそばへ寄つて來た。遠くで、ホテル行きの、自動車のヱンジンがかすかに唸つて、往來してゐる。
今日、トラングボムから戻つて來たばかりで、ゆき子に惹かれる氣持ちは、これは慾情だけなのかと、加野はちらりと、その思ひにかすめられたが、現在をおいては、他に此の女を得る機會がないやうな氣がしてゐた。加野はもう一度、ぴつたりゆき子に躯を寄せてみた。ゆき子はぎらぎら光つた眼差しで、加野を見つめた。むれた雜草や、花の匂ひが夜氣にこもつてゐる。時々、ちいつと草の莖が鳴つた。
「加野さん、私ね、内地では、どうにも仕樣がなくつて、こゝへ志願して來たンですの‥‥。加野さんは、お判りになるでせう? あの戰爭のなかで、若い女が、毎日、一億玉碎の精神で、どうして暮してゆけて? 私、氣まぐれで、こんな遠いところへ、來たンぢやないのよ‥‥。何處かへ、流れて行きたかつたの。――それを、富岡さんに、あんな、意地惡な事を云はれて、‥‥心にこたへない筈つてないでせう? 三人とも、日本人ですよ。――葛飾だつて、四ツ木だつて、よけいなお世話だわ。生き苦しい氣持ちで辿りついたものを、高いところから、せゝら笑ふなンて失禮よ‥‥」
突然、ゆき子が甲高い聲で云つた。加野は、激情を宙に浮かしたまゝ、獸のやうに光つたゆき子の眼を覗き込んでゐたが、生き苦しくて、こゝへ來たのだと云はれて、ゆき子の背景にある、内地の状態がぐるりと眼に浮んだ。
「富岡は、酒に醉つてるンだよ‥‥」
加野はさう云つて、また、大膽に、ゆき子の二の腕を、兩の手で強く握り締めた。
「厭ツ! 加野さんも、酒に醉つていらつしやるのねツ、私は、違ふのよ‥‥」
ゆき子は固くなつて、云つた。眼を閉ぢたが、別に加野の手をふりほどきもしなかつた。矢庭に熱い加野の唇が頬に觸れた。咄嗟に、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。
道の方で、「おーい、加野君!」と呼んでゐる、富岡の聲がした。加野は小さい聲で、ゆき子に、
「貴女も、後から戻つていらつしやい」
と、云つて、素直に加野は、すたすたと草の中を分けて、道へ出て行つた。富岡は默つて草の中から出て來た加野に、急に不快なものを感じてゐる。加野は云ひわけめいた事も云はずに、默つて、富岡と歩調をあはせて、相手の不快らしい反射を浴びたまゝ、事務所の方へ戻つて行つた。夜氣は凉しく、夜霧で、靴がアスハルトに滑りさうだつた。
「内地はそろそろ雪だね‥‥」
富岡が生あくびのあと、ぼつりと云つた。
「あゝ、歸りたい。一度でいゝから歸りたいなア‥‥」
加野は、息苦しくて、流れて來たのだと云つたゆき子の、思ひ詰めた、さつきの言葉が胸に引つかゝつて返事もしなかつた。
「幸田ゆき子は、相當怒つてるの?」
富岡が何氣なく、煙草を出して、長い紐つきのライタアを、指の先きで彈きながら云つた。
「あゝ、怒つてるね」
「さうか‥‥」
「いゝ娘だよ」
「ほう‥‥いゝ娘かね? 彼女は、娘なのかね‥‥」
「娘だよ。手ひどくやつゝけられた」
かへつて、現在白状しておく方が好都合だと、加野は正直に告白した。富岡は、煙草を吸ひながら默つて歩いた。
「君は、内地に好きなひとはなかつたのかい?」
「なくもないさ‥‥」
「ふうん‥‥」
加野は、曲り道で、後を振りかへつて見たが、ゆき子の姿は坂の下には見えなかつた。
「おい、明日、フイモンまで、自動車で釣りに行かないか?」
富岡の道樂は釣りであつた。フイモン附近には、四つの飛瀑があり、富岡はフイモンは馴染みの場所である。加野は釣りに行く氣はない。そんな悠々とした氣持ちにはなれなかつた。久しぶりに山の中から戻つて來たのである。人間が見たかつたし、切ない感情が胸の中に渦を卷いて、こゝまで、戻つてゐるのだつた。久しぶりに富岡に逢つた事も嬉しかつたが、思ひがけない幸田ゆき子との出逢ひは、野火のやうに火を噴いた。黒いパンツを見た時の、脚のすくむ感情は、現在、加野にとつて、どうしやうもないのである。加野は返事もしないで、ぴゆつと犬を呼ぶ時の口笛を吹いた。自動車小舍の方で、微かに犬が吠えた。
「牧田さんはうまい事したなア、サイゴンとプノンペンでは、久しぶりのオアシスだね‥‥」
「うん」
「富岡さん、サイゴンで、面白い事あつたの?」
「面白い事なンかあるもンか」
「さうかなア‥‥。さうでもないだらう?」
「君も、トラングボムへ歸る迄に、一度、サイゴンへ行つて、さつぱりして來るンだね‥‥」
「サイゴンか‥‥。久しく行かないなア‥‥」
加野は、サイゴンなんか、どうでもよくなつてゐた。今夜の、星あかりに見た、ゆき子の、獸のやうな眼の光りが忘れられなかつた。どうしても話しあつてみたかつた。そして、あの淋しさを慰めてやりたかつた。少し夜風に吹かれたせゐか、さつきの激しい動悸もおさまり、自分のせつかちな亂暴さが、後悔された。氣まぐれで、こゝへ流されて來たのではないと、泣きさうになつて云つた、あの思ひは、考へてみると、自分にも通じるものがあつた。兵隊に行くよりはいゝのだ。あの言葉は、忘れ去つてゐた古傷に、さはられたやうな痛さである。赤羽の工兵隊に召集されて、南京攻略に行つた時の、あの憂鬱な戰爭が、腦裡をかすめた。何といふ湖だつたか、暗い夜、船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびかたをした思ひ出が、影繪のやうに加野の瞼に浮んだ。
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