University of Virginia Library

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三十二

 二人は、五日の夕方東京へ戻つた。

 東京を去る時よりも、もつとひどい憂鬱さで、ゆき子は自分の避難所へ富岡を連れて戻つて來た。母屋の荒物屋へ歸つた挨拶に行くと、お神さんは厭な顔をしてゐた。ゆき子は、さうした顔に行きあたると、思ひがけない旅路の長さを思ひ、他人の家へ這入るやうな氣兼な氣持ちで小舍の鍵を開けた。引いて貰つたばかりの電氣をつけ、ソケットをコードについで、電氣コンロのスイッチをひねつた。部屋のなかは何となくかき亂されてゐた。炬燵の上には手紙が置いてあつたが、それは伊庭の置手紙であつた。二日ほど、こゝでゆき子を待つ爲に泊つた事や、一度郷里に戻つて來いと云ふ事が記されてゐた。鷺の宮には、七草の日に、伊庭一家が集る事になつてゐるから、その日はぜひ泊りがけで來てくれるやうにともある。ゆき子は、すぐ、それをぴりぴりと破つて七輪に投げ込んだ。火を熾して、炬燵に入れると、ゆき子はコオヒイを電氣コンロにかけた。

 炬燵に膝を入れて、煙草を吸ひつけてゐた富岡が、片手で髮の毛をかきむしりながら、

「おい、こゝには酒はないのか?」と聞いた。

 ゆき子は默つて、部屋の隅の壜を二三本透かして見てゐたが、「ないわ」と云つた。富岡は毎晩酒がなくてはゐられないやうになつてゐる。酒の力で心を引つ掻きまはしてゐなければ、ぐんぐん沈下してゆく自分の孤獨さに耐へてゆけないのだ。連れて逃げてくれと云つたおせいを富岡はそのまゝ置き去りにして來た事が、いまでは遠い昔に思へた。戀しくもあつたが、どうでもいゝ事でもあつた。所を教へてくれと云はれて、富岡は出鱈目な住所を渡しておいた。おせいの心づくしの新しいパンツをはいて東京へ戻つて來たが、それはまるで他人事のやうでもあつた。

「飮みたい?」

「飮みたいねえ‥‥」

「さう、今夜は貴方を飮みつぶさせてやるわね‥‥」

 ゆき子はコオヒイを淹れながら、冗談を云つた。その癖、酒を買ひに行く氣はなかつたのだ。

「まだ、氣にしてゐるのか?」

「あら、私が、何を氣にしてるの?」

「いや、何でもない。お互ひに命びろひをした祝賀會でもするか‥‥」

「おせいさんに救はれたやうなものね」

「猿ツ子にかい?」

「いゝ躯してるぢやないの? バスの處で、おせいの眼に、涙が光つてたわ」

「ふうーん」

 ゆき子はコオヒイ茶碗を富岡のそばへ差しのべて、自分も熱いのをすゝりながら、初めて富岡の顔を見た。灰皿に煙草をにじりつけて、富岡もコオヒイを唇へ持つて行つた。何故ともなく、ゆき子は、今夜は一人きりで昏々と眠りたかつた。酒は伊香保以來一滴も飮みたくはなかつた。――コオヒイを飮み終ると、富岡は酒を買つて來ると云つて、戸外へ出て行つた。ゆき子は富岡の意のまゝにしておいた。富岡の酒の習慣が、宿命のやうにも思へる。東京も案外寒かつた。

 ゆき子は米を洗ふ爲に母屋の裏口へ水を汲みに行つた。ジョウは來てくれたのだらうかとも考へたが、それもどうでもよくなつてゐた。バケツに水を汲み、小舍へ戻ると、富岡は酒を一升買つて來てゐた。自分でやかんに酒をあけて、コンロにかけてゐる。

「酒に淫する方ね」

「うん、いまのところ、これが最大の戀人だな‥‥」

「富岡さんつて怖いひとだわ。自分の事ばかり可愛いのでせう?」

 燗をした酒を、コオヒイ茶碗についで、ぐうと一口美味さうに飮んで、富岡はじろりとゆき子を見た。

「可愛いから未練があるンだ。死ぬのは痛いからね‥‥。死んでしまふまでの一瞬の痛みの怖さなンだ。これは怪我のやうな痛みぢやないからね。命を落す痛みなンだ。仲々死ねない。自分が可愛いンぢやなく、命に未練があるからなンだ‥‥。君、一杯やらない?」

「ほしくないの、胃が痛くなるのよ」

「さう云はないで、一杯やつたらどうだい。いゝ氣持ちだよ」

「私は御飯を焚いて食べるからいゝわ。お酒は一滴も入らないの‥‥」

 ゆき子は鍋の米を洗つてコンロにかけた。富岡は二杯目の酒をコオヒイ茶碗につぎ、小さいさいころを二つポケットから出して、炬燵の上で振つた。おせいがそつと別れる時にくれたものだつた。二と五が出た。しまつたと思つた。富岡の最も嫌な數字だつた。あわてゝさいころを振りなほした。四と五が出た。富岡は憤懣に似た氣持ちで、さいころをまた振りなほした。三杯目の酒を口にふくんで、幾分か重苦しい憂愁の車が滑り出した氣がした。「惡靈」のなかのキリーロフの言葉に、

『けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思ひますか』と云つてゐるのを思ひ出してゐた。自殺を怖れる第一の理由が痛み、第二の理由は來世。『完全な自由といふものは生きても生きなくても同じになつた時、初めて得られるのです。これが一切の目的です』と云つてゐる。富岡は溜息をついて、またさいころを大きく振つた。不思議に二と五が出た。また元の同じ數字へ戻つたのだ。

「飯は煮えたかい?」

「もうすぐよ」

「伊香保は面白かつたね?」

「さうね。猿ツ子がゐたからでせう?」

「うん‥‥」

「戀しい?」

「うん‥‥」

「また、行けばいゝわ‥‥」

「うるさいなア、行くよツ」

「どうして怒るの?そんなに好きなのね‥‥」

「あゝ好きだよ。何も云はないで、躯で表現してる女だつた。逢ひたいよ‥‥」

「逢ひに行けばいゝンだわ」

「もう遲い。捨てゝ來た‥‥」

 ゆき子が何か云はうとした時、池袋驛を通過する貨物列車の地響が、小舍を地震のやうにゆすぶつた。

 富岡は、おせいの眼の光が瞼に浮んだ。きらきらよく光る、獸のやうに美しい眼だつた。大柄な、どつしりした白い裸體が空間で屈折する。熱い汗ばんだ肌がひどく戀しい。默つて、お互ひの指を握りあつた闇のなかの息づかひが、急に耳についてはなれない。程よい醉ひのめぐりで、富岡はおせいに對して、馬鹿に慾情をそゝられた。パアマネントした固い髮の毛の感觸が、丁度馬の皮なみのやうだつた。富岡は、小さい豆粒ほどのさいころをやけになつて炬燵の上で振つてゐるのだ。貨物列車は遠く去つて行つた。地響きも消えた。四杯目の酒を富岡は口に持つて行つてゐる。ゆき子は鍋を降ろした。渦を卷いたコンロの火が寒々とした部屋に、賑やかだつた。ゆき子は、いまごろになつておせいが憎くてたまらなかつた。默つて躯で表現すると云つた富岡の言葉が、針のやうにさゝつた。あの時の酒の醉ひで見た、もうろうとした女のお化けは、あれは、やつぱりおせいだつたのではないかと思へた。

「貴方は怖いひとだわ‥‥」

 富岡は返事もしないで、さいころを振つてゐる。退屈だつた。と云つて、邦子のところへ歸る氣はしない。空家同然のがらんとした家に坐りこんでゐる妻の邦子の姿が、現在の富岡にはうつたうしくもあるのだ。そのくせ、ゆき子に對して、深い愛情があるわけのものでもない。むしろ、友情に近いものに純化しようとしてゐるお互ひのずるさが此の頃になつて判り始めて來た。ゆき子を戀人にした時代はとつくの昔に過ぎ去つてゐる。