浮雲 (Ukigumo) | ||
十八
富岡は信州行きがのびて、一向に田所の處の話が埒があかなかつた。何でも素早く立ちまはらなければ、世の中はどんどん變つて行くのだ。金の價値もすつかり變つてしまふと云ふ風評も飛んだ。いまのうちに、材木をしこたま豫約しておきたかつたし、此の頃、紙の闇も激しいと聞いて、その方にも手をのばしたかつた。だが、かうして、世の中に獨りでごろりと放り出されてみると、富岡は自分の無力さを悟るのだつた。誰も信用出來るやうな顔でゐて、ひそひそ語りあひながら、その實、胸の中には自分一人で胸算用をしてゐる‥‥。敗戰だとか何とか云つたところで、みんな、不安な方へ考へを持つて行かうとはしてゐないのだ。このどさくさに、何とか力頼みなものが自分の周圍にだけ轉がつてゐるやうに、無雜作に考へたがる‥‥。戰爭をしてゐる時よりは、この革命的な、スリルのある時代の方が誰にも好ましかつた。人間はすぐ退屈する動物だ。どんな變形でもいゝ、變化のある世代がぐるぐる廻つてゆく方が刺戟があつた。
富岡は、まづ、さうした事業の手始めに、家を賣つて資金をこしらへるより術はないと考へた。まづ、五六十萬の現金さへつくれば、その金を土臺にして、あとは何とか出來てゆくやうな氣がした。このまゝ手をつかねて、この時代をやりすごすには忍びないのだつた。
或朝、食事の時に、邦子が、ふつとこんな事を云つた。
「ねえ、この間、尋ねてみえました、ほてい商會の女の方ですね、私、昨夜、家の近所でおめにかゝりましたけれど、あの方、この近くにお知りあひでもございますのかしら‥‥」
富岡は、忘れようとしてゐたゆき子のおもかげをふつと瞼に浮べた。默つて味噌汁をすゝつてゐると、この近くをうろうろしてゐるゆき子の苛々した顔つきが心にこたへて來る。
「御主人は、何時頃、信州からお歸りでせうかつておつしやるものだから、私、どう云つてお返事していゝか判りませんので、もしも、歸りの道で、貴方にお逢ひになつては工合が惡いと思ひまして、昨日、戻つて參りましたつて云ひましたのよ‥‥。何か、御用でございましたら、傳へますつて申しましたら、御近所まで來たとおつしやつて、いまずつとほてい商會に住んでゐますから、夜分にでも是非お出掛け下さいと傳へてくれつておつしやるンですの‥‥。そして、先日お立替したものをお返し願ひたいとおつしやれば富岡さん御承知ですつて、そのまゝさつさと行つておしまひになりましたのよ。とても派手な化粧をした方ですのね」
息苦しい氣持ちで、富岡はゆき子のその後の消息を知らされた。それでは、住むところもなく、あのホテルに居着いてゐるのかも知れないと思はれる。あの時、千圓の金はどうしても取らないと云つて、池袋の驛で、無理矢理突つ返されてしまつたが、ゆき子が、泣きながら、自分だけが幸福になる爲に、人を犧牲にするのかと云つた事が、いまでも判然りと富岡の耳についてゐた。
生一本な加野を、狂人のやうにしてしまつてまで、あの時は、富岡はゆき子を得た。その爲に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無雜作に二人は結婚出來ると考へてゐたし、また二人はそれだけの心の準備をしたつもりだつた。富岡は急に味のなくなつた朝の食卓から、早く箸を置いた。ゆき子の不幸な姿に濟まなさを感じた。旅空での、男の無責任さが反省されもした。此の家を賣るとなれば、兩親にも妻にもそれぞれ金を與へて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想したが、その空想は少しも慰さめにはならなかつた。
「お金でも、その商會でお借りになつたンでございますの?」
白粉氣のない邦子が不安さうに訊いた。
「昨夜、何時頃だ」
「七時頃でせうか。買ひ物に參りましての歸りでしたわ。貴方が遲くお歸りでしたので、つい、申し上げるの忘れてゐましたけれど、今朝、ラジオの尋ね人で、ほていと云ふ名が出ましたので思ひ出しましたけど、ほてい商會つて、何の御商賣なさる處なンですかしら‥‥」
富岡は返事もしなかつた。何時も朝の遲い食事だつたので、父も母も他の部屋にゐた。邦子は新聞をたゝみながら、
「私が、參りましてはいけないでせうか?」と云つた。
憑かれたやうに、富岡は邦子の細面の顔を見てゐた。この秘密を妻に何も彼も打ちあけたい氣がした。富岡は疲れてへとへとな氣持ちだつた。妻に、自分の秘密を洞察して貰ひたかつた。この不安を長く續ける勇氣もないくせに、ゆき子の問題には何一つ親身になつてやらうとしない身勝手さが、富岡には自分でよく判つてゐた。みんな自分のやつた事なのだ。日本へ戻つてからといふもの、富岡はまるで人が變つたやうに、固い假面を被つて、自分の感情をおもてに現す事を好まなくなつてゐた。邦子はさうした良人に對して、もどかしく水臭いものを感じて、あの派手な化粧の女とのつながりが、無關係ではないやうに思へ、不安で暗いものを直感した。このごろの富岡は、眼には落ちつきがなく、邦子を愛撫し、抱擁してゐても、突然その動作を打ち切つて深く溜息をつくやうになつてゐた。昔のやうな強烈な力を使ひ果さないうちに、富岡はあきらめたやうに、冷たく邦子を突き放す時があつた。
「貴方は、佛印からお歸りになつて、とつてもお變りになつたわ‥‥」
と、富岡が歸つて來た早々に邦子が不思議さうに云つた事があつた。富岡も自分の變化はよく判つてゐた。朝々髭を剃るたび、鏡の中の自分の顔が、スタヴローギン的な厭らしさを感じないではない。繪に描いた美男子ではなかつたが、それに、唇は珊瑚の色でもなく、顔色は白く優しくもなかつたが、このまるきり違つた東洋の蒼ぶくれの男が、何となく、悪靈のなかのスタヴローギンのいやらしい外貌に似てゐる氣がして氣持ちが惡かつた。
田所が、このごろ、厭によそよそしてゐるのも、かうした心を見拔いての疎遠なのではあるまいかとも考へてみる。邦子と一緒になつた時にも、田所には多くの迷惑をかけてゐた。そのくせ苦勞人の田所は、少しも富岡に對して迷惑がつた顔色もみせないで、佛印から戻つた孤獨な自分に、協力の手を差しのべてくれた事を思ふと、田所だけを責めるわけにもゆかないのだ。
「私、あんな女の方に、家のまはりを歩かれるのは厭です。何か、おありになるンぢやありませんの‥‥。とても、貴方の御容子が以前とはまるきり違つて來てゐるンですもの」
「馬鹿な事を云ふもンぢやない。何も變つてはゐないよ」
「それでは、私が、そのお立替のお返しに參りましてはいけないンでせうか?」
「男のやる事に、よけいな心配はしないがいゝ」
「でも、何だか、私、腑に落ちないンですもの‥‥」
「本人の僕が、心配するなと云つてゐるンだから信じたらいゝだらう」
「えゝ、それは、さうでせうけれど。貴方は、あの女の方に、何か負目がおありになるンぢやあありません。あの方の話が出ると、急に怒りつぽくおなりになるわ」
「君がつまらん疑ひを持つから怒りつぽくなるンだ。僕は仕事の事で、田所の方の仕事もおさきまつくらで思ひ惱んでゐるンだ。よけいな不安は口にしない方がいゝね」
富岡は、もう一度、しみじみと佛印の山林に出掛けてみたい氣がしてゐた。山林以外には、どうした事業も身には添はない氣がして、親も妻も家も、みんなわづらはしい氣がした。あの大森林のなかで、一生涯を苦力で暮してゐる方が、いまの生活よりはるかに幸福に思へた。
干潟の泥土の中に、まるで錨を組みあはせたやうな紅樹林の景觀が、どつと思ひ出の中から色あざやかに浮んで來る。ぎらぎらと天日に輝く油つこい葉、幹を支へる蛸のやうな枝根の紅樹林の壁が、海防でも、サイゴンでも港灣の入口につらなつてゐた。ビロードのやうなその樹林の帶を、富岡は忘れる事が出來なかつた。もう一度、南方へ行つてみたい。
今度こそ、あの戰爭中の狂人沙汰な氣持ちから頭を冷して、靜かに研究出來るやうな氣がした。だが、幾度その思ひ出に耽つてみたところで、身動きもならない身では、その考へもいたづらに身心を疲れさすだけだつた。
海を渡る事が出來ないとなれば、泳いでも渡つてゆきたかつた。家の問題も、富岡にはどうでもよかつた。このまゝ消えてゆけるものならば、この息苦しさから拔けて、南方へ行く密輸船にでも身を託してみたいのである。
邦子は、不氣嫌に默りこんだ良人の冷たい顔を見てゐたが、急に涙が溢れて來た。
「何を泣いてるンだ?」
「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになつて、私は、罰があたつたのだと思つてゐます。人の罰が當つたのですわ」
「小泉君の事でも思ひ出したのか?」
「いゝえ、そんな、あのひとの事なンか。‥‥貴方がこのごろ、私と別れたいと思つていらつしやるのだと思つて、いろんな罰を受けてゐる氣がします」
「暮しが苦しいから、君はそんな苛々した氣になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考へてはゐない‥‥」
富岡は嘘をついてゐる自分にやりきれなくなつてゐた。自分の嘘の塊が、ざくろの實のやうに、くわつと口を開いて自分を笑つてゐるやうに思へた。
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