University of Virginia Library

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二十二

 もう一度、逢ふつもりで、富岡は、ゆき子のところへ速達を出した。あの家で逢ふ氣はしなかつた。おびえた心で、あの家に坐つてゐる氣はなかつたので、富岡は、四谷見付の驛で待ちあはせるやうにして、時間と、日を知らせてやつた。

 あひにくと、その日は雨であつたが、クリスマスも過ぎ、暮れ近い、あわたゞしさが、街にこもつてゐたせゐか、雨の降つてゐるのも氣にかゝらないやうな、そんな、人に忘れられた、しぽしぽした雨の日であつた。

 富岡は驛で十分ほど待つた。

 激しい乘降客ではなかつたが、それでも、改札を、出入りする人達は、種々樣々の階級が、富岡の眼の前を忙はしく通つて行つた。富岡は何と云ふ事もなく、絶望的な氣持ちになつてゐた。その絶望感は、佛印にゐた時も時々感じてゐた。不安のこもつたもので、これ以上はどうしやうもないといつた、つきつめた思ひが、通り魔のやうに、富岡の胸のなかにこもつてきてゐた。

 富岡は、靴のさきを、ばたばたと貧乏ゆるぎさせながら、坂になつた道を見上げてゐた。鉛色の光つた坂道を、濡れ鼠になつた雜種の犬が、よろめきながら、誰かを探し求めるやうに歩きまはつてゐる。

 時計を見ながら、富岡は、ゆき子がもう來ないのではないかと思つた。少し待つてみて、來なければ、來ないで、そのつもりで、戻ればいゝのだと、よろめき歩いてゐる犬へ向つて、口笛を吹いてみたりした。犬は口笛の吹かれてゐる方をちらりと振り返つて、富岡をしげしげと見てゐたが、このひとは違ふんだと云つた、哀れつぽい眼つきで、すたすたと、八ツ手の植込みの方へまぎれて行つた。

「待つたでせう?」

 ゆき子が、驛の廂のところに立つてゐる富岡のそばへ、肩をぶつゝけて來た。

「三十分も過ぎたンだから、もう、ゐないと思つて、よつぽど、引返さうかしらと考へたのよ。ごめんなさいね‥‥」

 ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被つて、顎の下にきつく結び、生々とした表情で、脊の高い富岡の顔を見上げてゐる。富岡は、三十分も遲れたので、家へ引返さうと思つたと云つた、ゆき子の言葉が氣に入らなかつた。自分が此の女に、上手にあしらはれてゐるやうな氣がしてゐる。ゆとりのある女の心の状態が、富岡には厭な氣持ちだつた。別れ時が來てゐると思つた。

 富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまゝ、水溜りのなかへはいつて來た。――富岡は孤獨に耐へられない氣持ちで、一人でさつさと歩きながらも、後から濡れた道をびちやびちやと歩いて來るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺め、自分の孤獨の道づれになつて貰ひたい氣持ちになつてゐた。そのくせ、ゆき子と歩いてゐる時は、何となく犯罪感がつきまとふ氣さへしてくる。

 自分の孤獨を考へてゆきながら、その孤獨に、ひどく戰慄してゐるやうな、おびえを、富岡は感じてゐた。現在に立ち到つて、何ものも所有しないと云ふ孤獨には、富岡は耐へてゆけない淋しさだつた。自分を慰さめてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有してゐないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるやうに、鮮かにうごいて來る。

 ゆき子と、二人きりで、いまのまゝの氣持ちで、自殺してしまひたかつた。――若い日本の男が、外國の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の驛で劇藥をのんだ事件があつたのを、富岡は思ひ出してゐた。

 人間と云ふものゝ哀しさが、浮雲のやうにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかつたのだ。二人は、何處へ行く當てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。

「ねえ、寒いわねえ‥‥。何處か、お茶でも飮みに這入りませうか?」

「うん」

「いやに、しけてるぢやないの‥‥」

しけてる」

「えゝ」

「厭な事を云ふね‥‥」

「さう‥‥。獨りでゐると、いろんな言葉を覺えちやふのよ‥‥。荒んでゆくのが、自分でも、怖いみたい」

「ふうん‥‥。そんなものかね。如何にも、樂々として、愉しさうに見えるよ」

「あら、厭だわ。さうかしら。ちつとも、樂々となンか、してないわ。――さう見えるなんて、癪だわね‥‥。貴方だつて、あの頃とすつかりお變りになつてよ‥‥。ねえ、あゝ、もう、私は、何だか少しも、先の事が、判らなくなつてしまつた‥‥」

 富岡は、雨の街に立つて、並樹の美しい、昔の東宮御所の方を眺めてゐた。この建物も、現在はどんな方面に使はれてゐるのかは判らなかつたが、鐵柵を透かして、淡い灰色の御所の建物が、雨に煙り、並樹の黒い塊が、如何にも外國の繪でも見るやうに、新鮮だつた。

 じいつと見てゐるうちに、また、空虚な、とらへどころのない絶望がおそつて來た。

 富岡は、御所の道に添つて歩いた。ゆき子も默つて、富岡と竝んで歩いてゐる。

「佛印はよかつたね‥‥」

「あら、貴方もさう思つていらつしたの‥‥。私も、いまね、佛印の事を考へてゐたのよ。なつかしいわア‥‥。あんなところ夢ね。私達、夢を見てゐたのよ。さうなのね‥‥。夢を見てたンだわ。‥でも、夢にしても、貴方に逢つたンだから、不思議だわ‥‥」

「あんな事もあつたのかと、時々、思ふだけのものさ‥‥」

「あの時は、貴方だつて、私だつていゝ人間だつたわ。自然な人間まる出しでね‥‥」

「うん、それでも、本當の幸福ぢやなかつたのかも知れないね。さうぢやアないのかなア。いまね、この御所を見てゐて、急に、何だか、現在の方が倖せのやうな氣がしたンだ。――やぶれたものゝ哀れさは、美しい。その考へないかい? いまは、この建物も、何に使はれてゐるのか知らないが、昔は御所だつたンだよ、そのなごりが、そここゝに殘つてゐてさ。何となく、しみじみとするね」

 ゆき子は、御所の土壁の塀を呆んやり見上げた。淡い土壁の匂ひがした。富岡が感傷的になつてゐるほどには、その氣持ちについてはゆけなかつたけれども、やつぱり、ゆき子にも、ものゝ哀れは感じられる。雨が降つて寒かつたせゐか、四圍の景色が、ひどく印象的だつた。御所の横の、廣い道路を、ハイカラな、コバルト色の自動車がしゆんしゆんと走つて行つた。

 富岡は、自分の淋しさを咬む氣持ちであつた。何一つ、押しつける事なく、この女に自然な死の道づれになつて貰ひたい氣持ちだつた。

 今日まで生きて來て、何も彼も、國とともに喪失してしまつてゐると云ふ感情は、背筋が冷い、この冬の雨のやうな佗しさだつた。孤獨な國の、一人々々は、釘づけになつてゐるやうなものだと考へる。如何なる戰爭も、やぶれてこそ、愛しく哀れでもあると思へた。やぶれた敗者の魂には、人知れず、昔のファンタジーを呼びとめる何かゞあるやうに、そのファンタジーは、時々は、誰にも反省をうながすものであらう。――富岡は、何も考へてはゐないやうな、單純な女の生活のファイトを羨みながらも、ひそかに、その女の、平易な心の流れに不服なものを感じるのだつた。女自身は、何も缺乏してはゐないのだと、富岡は、ふつと、自分のそばに、寄り添つて歩いてゐるゆき子を見降した。怖ろしい事には、この女に限らず、どの女も、長い戰爭の苦しみを、通つて來た痕跡を、少しもとゞめてゐないといふ妙な發見だつた。

「ねえ、何處まで歩くのよ?」

「疲れたのかい?」

「だつて、濡れて歩くの、たまらないわ。風邪ひいてしまふわ‥‥」

「赤坂へ出て、あすこから、澁谷へ都電で出てみるのもいいぜ」

「えゝ。――ねえ、話つて、なあに?」

「話か‥‥。別に、たいした話もないンだがね」

「勝手なひとね‥‥」

「さうかね? 君に逢ひたかつたからなンだよ」

「嘘! 嘘云つてるわ。私に逢ひたいなンて、そんな優しい言葉を聞くのは、初めてね?」

「女と云ふものは、そんなに、優しい言葉を聞きたいものかい?」

「そりやア、さうよ‥‥」

 富岡は、かうした會話のがいねんに、やりきれなくなつてゐた。かうして、逢つてみても、何も收穫がないのだ。そのくせ、人々の魂の上に、敗者の心の亂れや、その日暮しのあくせくした思ひだけが、黒雲のやうにのしかゝつて來てゐる。自分は自分なのだと、承知してゐながら、何も知らぬ相手まで、自我のなかに引きずり込んで、道づれをつくりたいと云ふ甘つたれた淺はかな慾望が、富岡には、自分でも解らなかつた。何か收穫があるやうな錯覺で、日々を生きてゐるだけの自分が、ずるい人間のやうにも考へられて來る。