浮雲 (Ukigumo) | ||
六十五
サイゴンの街を出外れると、道は自然にキャデインの町へ這入つてゆく。こゝには日本の兵隊が澤山ゐた。こゝからビエンホアの町へ這入る間、甘蔗畑や、果樹園や、椰子、檳榔の生ひ茂る、いくつかの小さい部落を拔けて、ドンナイ河に架つた、長い鐵橋を二つも渡つた。そして、美しいビエンホアの町だ。小さいホテルで、ゆき子は、加野と富岡と、三人で、こゝへ一泊した。佛蘭西人のホテルで、メエゾン・ポアソンといふ家號だつた。看板には魚の尻尾だけが、大きく描かれてゐる。
丁度空襲があつて、發電所がやられたあとだつたので、三人は、花炎木の花盛りの黄昏の庭で、食事をした。何處かの植込みで、奇妙な野鳥が啼いた。むせるやうな花の匂ひがした。庭の芝生は、黄昏の光の底に、濡れたやうなグリーンで、ゆき子の白い靴先が、木の卓子の下で、富岡の足とたはむれてゐる。
むし暑い、寢苦しい夜で、遠くで、食用蛙の無氣味な啼き聲がしてゐる。じいつと、眼をすゑて考へてゐるうちに、ゆき子は、自分の胸におほひかぶさつて來た、富岡の躯の重さに、息苦しくなつてゐた。
森閑とした部屋の外に、そつと、鍵をまはしてゐる音、やがて、扉は開き、外の光のなかから、脊の高い富岡が、扉の中の暗さへ消えてしまふ。白い蚊帳のなかで、わざと、激しく、ゆき子は、扇をつかつてゐた。二人の唇のなかには、さつき、芝生で飮んだ、シェリー酒の匂ひがこもつてゐる。此のホテルには、二組ばかり軍人も泊つてゐるのだ。ゆき子も富岡も、聲一つたてないで、じいつと、お互ひの眼を暗がりの中で、みつめあつてゐた。獸めいた、光つた眼の底に、戰爭とはかけはなれた、二人だけの、ひそかな愛情が、しみじみと二人の思ひを語りあつてゐるのだ。
窓の外に、大きな樹の實の落ちる音がした。二人は、その音にもおびえた。井戸の底にでもゐるやうな、靜かな、高原のビエンホアのホテルの一夜は、ゆき子にとつては、夢の中にまで現はれて來る。房々とした富岡の頭髮の手觸りが、いまでもじいつと思ひをこらすと、掌のなかに匂つてきた。
翌日は、二人は、何喰はぬ顔で、自動車でダウジアイから、分岐點のジリンを經て、約四十キロのリボンのやうな官道にゆられてゐた。奥の方にはゆき子と加野が竝び、安南人の運轉手と富岡が、運轉臺に竝んだ。加野は妙に不機嫌であつた。整然としたゴム林のなかを、強烈な太陽の漏れる緑のトンネルのなかを、自動車はジリン高原を走つた。
林業試驗所のある、トラングボムで一寸降りて、そこで、富岡と加野は、それぞれの用事を濟ませて、また、自動車は、もの淋しい鉛色のうねうねとした官道を、すくんすくんと音をたてゝ走つて行く。この邊には、よく野象が飛び出して來るところもあると、安南人の運轉手が云つた。巨大なバンラン樹が、黒々と群生してゐる、無氣味な森林地帶だつた。
夢のなかで、ゆき子は、微笑しながら、その夢を追つかけてゐる。もう、二度と、あの青春は戻つては來ないのだ‥‥。あの當時のまゝのものはもう歸らない。富岡も、ゆき子も、いまは、かうして、南の果ての、屋久島まで來てゐるのだけれども、二人は、あの時から、幾年か年を取つてゐた。‥ゆき子は、耳もとにざはつく、雨の音を、樹海のそよぎのやうに、聞いてゐたが、それが、窓硝子に、霧をしぶいてゐる雨の音だと判ると、ゆき子は、がつかりして、奈落へ落ちこむ氣がした。
ノアの洪水のやうに、家そのものが、ぞつぷりと、水浸しにあつてゐるやうだ。眼を閉ぢると、自分の皮膚と筋肉の間をとほつて、心臟の音が、いやに判然りと耳についた。そして、時々、その心臟の音は、停つては、またとくとくと動く。耳を枕につけると、心臟の音は、人の足音のやうに大きく響いた。
四圍の空氣を、さつと、刀で切りつけてやりたいやうな、じれじれした雨である。ゆき子は、ぴいんと、手足をのばしてみた。自分の寢棺は、どの位の大きさなのだらうかと、不吉な空想をしてゐる。さうして、心ひそかに、昨日山へ行つた富岡の歸りを、心待ちにして、ゆき子は全身が待つ事に集中してゐた。
比嘉もなかなかやつて來てはくれない。ゆき子は、何故か、靜岡へ手紙を出したかつた。繼母へあてゝ手紙を書きたかつたが、考へてゐるうちにまた氣も變つてくる。手傳婦の都和井のぶは、ゆき子の食事に就いては、少しも工夫をこらしてみようといふ氣はないらしく、のりになつたまづい粥と、梅干一つに、時々、生卵を皿の上にごろりとのせて出すきりである。何となく、この都和井のぶと、富岡が、示しあはせてゐるやうな錯覺にとらはれて來るのだ。ゆき子は、この女から、解放されなければならないと思つた。殺されてしまふやうな氣がして來る。
枕もとで、じいつと、本を讀んでゐる都和井のぶの姿を、ゆき子は、時々、眼をあげて、眺めてゐた。戰死した良人に離れて、九年間も孤獨をまもつて來た女らしく、如何にも意志の強さうなところがあるのだ。そのくせ、胸や、顎のあたりは、油が浮いて美味さうな女の肌をしてゐた。
何を讀んでゐるのかと、ゆき子は、その本は、何かと聞きたかつたが聲を出す事がものういのだ。毛布に、汗ばんだ手をごろりと出して眺めながら、ゆき子は、このまゝ、自分の生命の終りを、自分で、靜かに感知出來るやうな氣がした。
都和井が、本をそこへ置いて、玄關へ出て行つた。本は、富岡が、安房旅館から借りて來た、家庭醫學の古本であつた。今日は、霧雨にけぶつてゐるせゐか、硯のやうに、けづり立つた八重岳は見えない。ゆき子は、玄關へ出て行つた都和井の、白い足裏が氣にかゝつてゐた。こゝの女達は、いつも裸足である。砂地を踏むせゐか、女達の足の裏は、案外綺麗で、別に水で足を洗ふでもなく、そのまゝ部屋の中へ上つて來るのだ。
ゆき子は、自分がこのまゝ亡くなつてしまへば、富岡は、こゝで、都和井のぶと結婚をして、住みついてしまふかも知れない‥‥。ゆき子は、さうした可能性のある、未來を豫想出來た。二人が、そのやうに結ばれてゆくであらう過程を空想してゐるうちに、ゆき子は、胸もとに、激しい勢で、ぬるぬるしたものを噴きあげて來た。息が出來ない程の胸苦しさで、ゆき子は、ぐるぐると躯を動かしてゐた。兩手を鼻や口へ持つて行つたが、噴きあげるぬるぬるはとまらないのだ。息も出來ない。聲も出ない。蒲團も毛布も、枕も、噴きあげる血のりで汚れた。
ゆき子は、このまゝ死ぬのではないかと思つた。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐つて、一生懸命、死神にとりすがつてゐるのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存してゐる‥‥。この女の肉體から、あらゆるものが去りつゝあるのだと宣べて、死神は、勝利の舞ひを、舞つてゐるやうでもあつた。胸中に去來するものゝなかに、ゆき子は、かすかに、加野の誘ひの聲を聞いた氣がして、頭をかすかにふつた。いまゝでの生活のなかで、ゆき子は、未練に思ふやうな心殘りなものは一つもなかつたし、いま、自分のそばに、富岡がゐてくれたにしても、もうすでに、冥府へ、自分だけの乘つた汽車は、走り去らうとしてゐる。最後の生命を貫流する、矢つぎ早な、肉體の破壊作用は、いつたい、どこから音をたてゝ崩れてゆくのか、ゆき子は、自分の死の最初を知りたかつた。苦しくあへいだ。水が飮みたかつた。無鐵砲なほど、健康だつた頃の、あの長い旅行の數々が、虹のやうに、とりとめなく瞼に浮んで來る。未知の世界へ逝く、不安と分裂と混亂が、ゆき子の十本の指のなかに、ピアノのキイを叩くやうな表情で、表現されてゐた。空洞になつた肺のなかに、泥々の血が溢れてゐるやうな氣持ちの惡さだ。
誰かゞ枕許で、影をちらちらさせてゐた。その影がわづらはしく、ゆき子は、血みどろの顔を擧げて、その影をさけようとした。だが、その影は、人類破壊の稻妻のやうな、暗い光りをともなつて、ゆき子の額にちらちらと動いてゐた。
ノアや、ロトの審判が、雨の音のなかに、轟々と、押し寄せて來るやうで、ゆき子は、その響きの洞穴の向うに、誰にも愛されなかつた一人の女のむなしさが、こだまになつて戻つて來る、淋しい姿を見た。失格した自分は、もうここでは何一つ取り戻しやうがない。あの頃の自分は、どうしてしまつたのだらう‥‥。佛印でも樣々な思ひ出が、いまは、思ひ出すだにものうく、ゆき子はぬるぬるした血をううつと咽喉のなかへ押し戻しながら、生埋めにされる人間のやうに、あゝ生きたいとうめいてゐた。ゆき子は、死にたくはなかつた。頭の中は氷のやうに冷くさえざえとしながら、躯は自由にならなかつたのだ。
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