University of Virginia Library

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 夜明けに吹く山風で、ゆき子は松風の音を聽いた。朝の寢覺めに、あの男と、廣い芝生でテニスをしてゐる夢をみて、なつかしかつたが、その夢は思ひ出さうとしてもとりとめがなかつた。またすぐ、こゝを發つて行くひとだらうか‥‥。それにしても、同じ屋根の下に二度も吹き寄せられる人間の奇遇を、ゆき子は愉しいものに思つた。念入りに化粧をして、粗末な布地ではあつたが、白絹のワンピースを着て、朝の食堂に降りて行くと、牧田氏と、あの男が、網戸をあげた、廣い窓邊でコオヒイを飮んでゐた。血色のいゝ牧田氏は、にこにこして朝の挨拶をしてくれたが、あの男はゆき子に對して一べつもくれなかつた。窓へ足をあげて、不作法な腰掛けかたで、もやでかすんでゐる湖を見てゐた。情のないしぐさで、そんな風なスタイルを見せる一種のポーズが、ゆき子には、中學生のやうながんこさに見えた。

「どうです?幸田さん、こつちへいらつしやい。道中が長いンで疲れたでせう? サイゴンでは、富岡君と同じ宿舍だつたンださうですね?」

 ゆき子がその男の方を不安さうに見たので、牧田氏は、小さい聲で、

「君、幸田君つてね、これから、當分こゝで、タイプの方をやつて貰ふひとなンだよ。半年位して、パスツウルの方へまはつて貰ふンだがね‥‥」と、云つた。

 男は初めて、幸田ゆき子の方へ躯を向けた。それでも腰かけたなりで、「僕、富岡です」と挨拶した。

「何だ、初めてなのかい? 紹介濟みかと思つてたンだよ。こちらは富岡兼吾君、やつぱり本省の方から來たひとで、三ケ月程前にボルネオから轉任して來たンだ。――日本の女のひとは珍しいから、もてゝ仕樣がないだらう‥‥。こゝぢや、幸田さん一人だからね」

 ゆき子は、革張りのソフアに遠く離れて腰をかけた。昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子の事を、地味な女だから、かへつて、仕事にはいゝだらう。サイゴンに置いて來た篠井といふ女は、これは一寸美人だから問題を起しはしないかと心配してゐるンだと話してゐたが、かうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の云ふほど地味な女にも見えなかつた。珍しくパアマネントをかけてゐないのも氣に入つた。第一、つゝましい。きちんとそろへたむき出しの脚は、スカートの下からぼつてりとした肉づきで、これは故國の練馬大根なりと微笑された。疊や障子を思ひ出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼く澄んだ首筋に、同族のよしみを感じ合掌したくなつてゐた。少々額の廣いのも、女中のニウよりは數等見ばえがした。混血兒のマリーのやうに、六角眼鏡をかけてゐないのも氣に入つた。日本の若い女が、はるばるとこの高原へ來て呉れた事が牧田氏には夢のやうなものであつた。昔は海外へなぞ出て行く女に對して、あまりいゝ氣持ちは持てなかつたのだが、幸田ゆき子は、牧田氏には案外印象がよかつた。化粧も案外上手である。瀬谷の云ふほどの女ではなかつた事が牧田氏を幸福にした。大きな卓上にはカンナの花が活けてあつた。牧田氏は至つて機げんよく富岡と専門的な話をしてゐた。ゆき子はうつとりして、明るい窓の方を見てゐたが、心はとりとめもなく流れてゐた。富岡は煙草をくゆらしながら、兩腕を椅子の後に組んで、後頭部を凭れさしてゐた。左腕の黒い文字板の時計に、赤い秒針が動いてゐた。アイロンのきいた茶色の防暑服を着て、凉し氣なプラスチックの硝子めいた細いバンドを締めてゐる。剃りたての襟筋が青々としてゐた。軈て食堂のベルが鳴つた。牧田を先にたてゝゆき子が富岡の後から食堂へ這入つて行くと、白いテーブルクロースの上に、白や紫の珍しい花が硝子の鉢に盛られ、アルマイトの赤い器に、豆腐の味噌汁が出てゐた。玉子燒や、桃色のあみの鹽辛なぞが次々に運ばれた。ゆき子は富岡と竝んで牧田氏の前に腰をかけた。ホテルに泊つた茂木、瀬谷、黒井なぞはまだ事務所に顔をみせない。天井にしつらへてある扇風機が厭な音で軋つてゐた。牧田氏は味噌汁をずるずるとすゝりながら、

「内地は段々住み辛くなつてるさうですが、こゝにゐれば極樂みたいでせう?」

 と、ゆき子へ話しかけて來た。極樂にしても、ゆき子はかつてこんな生活にめぐまれた事がないだけに、極樂以上のものを感じてかへつて不安であつた。富豪の邸宅の留守中に上がり込んでゐるやうな不安で空虚なものが心にかげつて來る。

 時々、富岡は、サイゴンの農林研究所の話や、山林局の佛人局長に對する日本の亂暴なやりかたに就いてひなんをしてゐた。第一、貧弱な日本人が、コンチネンタル・ホテルなぞにふんぞりかへつてゐる柄でないなぞと牧田氏も小さい聲で合槌打ちながら、あんな大ホテルを兵站宿舍なぞにして、軍人が引つかきまはしてゐる事は、占領政策としても、かへつて反感を呼ぶ事ではないかと話した。

「我々は幸福と云ふものだ。軍の目的は兎に角として、我々は自分の職分にしたがつて森林を護つてやればいゝンですよ。充分にめぐまれた仕事として、それだけは感謝してゐるからね‥‥」

 富岡は、十日ばかりをサイゴンに暮し、ルウソウ街にある農林研究所で、ガス用木炭に關する研究を行つてゐた。富岡は、パン食であつた。ふつと、手をのばして、バターの皿を取つてくれた幸田ゆき子の手を見た。肉づきのいゝ日本の女の手を、珍しさうに見た。

 美しい優しい手だと思つた。

 生毛が生えてゐる。

「四五日うちに、ランハンに行きたいと思つてゐます。竹筋混凝土の研究を、一寸見て來ようと思つてゐます。加野君が、薪炭林の中間作業に就いての詳細をよこしてゐましたが、御覧になりましたか。――木炭自動車も仲々馬鹿になりませんね。もう、内地でも木炭自動車にどんどん切りかへてゐるさうですが、こつちぢやア早くからやつてゐるンですからね――。加野君の書いたもの、いつぺん眼を通しといて下さいませんか。トラングボムの研究所にも行つて、加野君にも逢つてやりたいと思つてゐます‥‥」

 富岡はぼそりと、そんな事を云つて、さつさと先に應接間へ戻つて行つた。

「随分變つた方ですのね‥‥」

 無遠慮に部屋を去つて行つた富岡に對して、思はずゆき子は牧田氏に、こんな事を云つた。

「風變りな人間でね、だが、あれで、仲々情の深い男なンですよ。三日に一度、きちんと細君に手紙を書いてをる‥‥。私には仲々そんな眞似は出來ない。責任感の強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違つた事がない奴ですよ‥‥」

 三日に一度、細君に手紙を書いてゐるといふ事が、何故だか、ゆき子にはがんと胸にこたへた。