University of Virginia Library

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二十七

 ヘイホの町は、三百五六十年前に、澤山の日本人が住んでゐた土地である。當時の御朱印船に乘り、ひんぱんに往來して、日本に、紫檀や、黒檀や、伽羅、肉桂なぞを送つてゐたものだが、その後、日本の鎖國の爲に、歸國出來なくなつた日本人が、此の地に同化した樣子で、墓碑の表なぞに、太郎兵衞田中之墓などと刻んであるのがあつた。

 流れる椰子の實のやうに、何處へでも遠く漂流して行く、昔の日本人の情熱を、ゆき子はひどく勇氣のあるものに思ひ、土まんぢゆうの墓碑にも、はな子之墓なぞとあるのに、ゆき子はいじらしい氣がしたものだ。

「ヘイホつていゝ町だつたわ、道が狹くて、やつと自動車一臺通れる幅だつたわね。マツチ箱を二つづつ重ねたやうな白壁塗りの家並がつづいて、ほら、日本橋つて、屋根のある小さい橋があつたわ。あすこで寫眞を加野さんが撮つたけど、あの寫眞も持つて歸れなかつたし、でも、あの時の私達つてぜいたくね。いま、あれだけの旅をするつて云へば、大變なお金がかゝるでせうね‥‥」

「罰があたつたンだよ」

「さうね、さう考へるに越した事ないわ。――もう、幾時頃かしら」

 ゆき子は腹這ひになつて、枕許の小机から時計を取つて見た。四時を少しまはつてゐた。ゆき子は、昨夜、あれほど、二人と死に就いて語りあつてゐながら、いまは、死に就いて何も考へる事はなかつた。こんなところで死ぬのは馬鹿々々しい氣がした。富岡の云つてゐる事も、本氣ではないやうに思へ、今日はこの時計を手放して、池袋の家へ戻りたいと思つた。二人の間に、佛印の記憶が、二人の心を呼ぶきづなになつてゐるだけで、こゝに寢てゐる二人にとつては、案外、別な方向を夢見てゐるにしか過ぎないのかも知れない。

 宿の拂ひに追ひたてられてゐる事が氣がゝりで、何時まで伊香保にゐても、少しもロマンチックな氣にはなれないのだ。ゆき子は、その氣持ちをうまく富岡へ表現したかつたが、富岡は、心が屈してゐる樣子で、此の宿を去る説には、仲々ふれて來さうもない。

「今日は、お正月ね?」

「うん」

「今日、歸る?」

「三四日ゐたいと、君は云つてたぢやないか。氣が變つたのかい?」

「氣が變つたわけぢやないけど、何だか、佛印の話も云ひ盡したやうな氣がするし、あなた、私に飽きちやつてると思つてさ‥‥」

「君が飽きたンだらう?」

「馬鹿云つてるわ‥‥」

 私は飽きないと云ふ處を見せる爲に、大きい聲で、馬鹿云つてると云つてみたものゝ、ゆき子は、池袋がなつかしかつたのはたしかである。浮氣でうつり氣なのかなと、ゆき子は、自分の心の中を手さぐりでさはつてみてゐる感じだつた。山峽の水の流れが深々と耳に響いた。

「もつと、苦しまなくちや、僕達は、この生活から前進は出來ないんだよ。君にとつてはどうでもいゝ事だらうがね‥‥。二人で逢つて昔の事をなつかしがつてみたところで、もう、月日は過ぎたんだし、そんな話をする事は、惡い習慣だよ。そんな昔話で、君と僕の間が、昔通りのあの激しさに戻るもんでもないしさ‥‥。そのくせ、俺は、細君にだつて、昔通りの愛情は持つちやゐないんだよ。戰爭は、僕達に、ひどい夢をみせてくれたやうなものさ‥‥。どうにもならん、魂のない人間が出來ちやつたものさ‥‥。ねえ、どつちつかずの人間に凡化しちやつたんだよ。時がたてば、昔話だつて色あせて來るしね。人生つて、そんなものだ。渇望する思ひだけが、馬鹿に強くなつて、この現實には、なるべく體當りしないやうなずるさになつて來てるしね。浦島太郎のはんらん時代なんだよ。現實は、一向にぴんと來ないとなれば、何處にも行き場がない。妙な大旅行はしない方がよかつたのさ‥‥」

「さうね、判るわ。でも生きてる限りは、浦島太郎で尻もちついてなんかゐられないでしよ?やつぱり、何とか、煙の立つてしまつた箱の蓋でも閉めて、そこから歩き始めなくちや、誰も食はしちやくれないし‥‥。でも、二人とも、別れて、二三日逢はないと、ふつと逢ひたくなるのは變だと思はない? 私、きまつて、あなたの事考へてるのよ。憎くかつたり、可愛いかつたり‥‥。人間つて、どうにもやりきれないもんだわ。もう少し、時がたてば、この氣持ちだつて、樂々する時が來るんだとは思ふんだけど‥‥」

 二人は、また、うとうとしはじめた。どうにかなるやうに任せて、時間のたつのをやり過すより仕方がないのかも判らない。

 二人が、昏々として眠りにはいつてから、眼が覺めるまではかなりな時間がたつた。

 遠くで鼓が鳴つてゐる。ゆき子がその鼓の音に眼を覺すと、富岡は寢床にゐなかつた。鼓の音はラジオだつた。ゆき子は起きて、袍褞の前をあはせ、時計を見ると、もう十一時を一寸まはつてゐた。女中が火鉢に火を入れに來た。

「旦那さんはお湯におはいりです」と、女中が云つた。ゆき子は昨夜借りた手拭をさげて、湯殿へ行つてみた。

 小さい湯の方へ、富岡ははいつてゐた。硝子戸を開けて覗くと、

「はいつていゝ?」とゆき子は聞いた。

「あゝ」

 ゆき子は袍褞をぬいで、粟立つやうな寒さの中に、手荒く硝子戸を開けて、湯殿へ降りて行つた。檜の浴槽に、滿々と赤い湯が溢れてゐる。もうもうとして湯氣が、狹い湯殿にこもつてゐた。

「おめでたうございます‥‥」

 ゆき子は笑ひながら云つた。富岡も、おめでたうと云つた。淡いながらも、二人の親和が、裸の肌に浸みた。旅空の正月とは云つても、時間と金が、ありあまつて湯治に來てゐる客ではないだけに、二人には、おめでたうと云ひあひながらも、佗しく、つゝましい感情が、心に流れてゐる。ゆき子が湯にはいると、湯はタイルの流しへ溢れた。

「おゝ、いゝ湯だこと‥‥」

「客は僕達だけらしいよ」

 富岡は、さう云つて、ざあつと流しへ上つて行つた。肌が赧くなつてゐる。浴槽の中は明るかつた。ゆき子はちらと、富岡の裸體から眼を外らして窓にせまつてゐる赤土の肌を眺めてゐた。

「ねえ‥‥」

「何だ?」

「私達何だか、落着いちやつたわね。でも、女中は、不思議な男と女だと思つてるでせうね。外へも出ないし、あまり、金もなささうだし、そのくせ、悠ゝとしてゝ、じめついてないし‥‥。でも、隨分、親切な家ね‥‥」

「うん、さうだね‥‥」

「さうだねつて、あなた、何を考へてゐるの? やつぱり、まだ死ぬ事? 私、あなたをもつと生きさせてあげたいのよ」

「いや、何も考へちやゐない。湯から上つたら、さつぱりして、酒を飮もう。そして、今夜歸るよ‥‥」

 と云つて、石けんを泡立てゝ體を洗ひ始めた。

「さうですか? もう榛名山へ登つて、湖水へ飛び込むのはおやめ?」

「うん、君とは死ねない。もつと、美人でなくちや駄目だ‥‥」

「まア、憎らしい。いゝ事よ」

 ゆき子は蓮つぱに笑つて、浴槽のふちへ兩手をかけて、泳ぐやうなしぐさをした。腕もいくらか太つて、すべすべした肌になつてゐる。何もしないで食べて寢る生活が、こんなに體にすぐ反應があるものなのかと、ゆき子は、しみじみと血色のいゝ腕を眺めた。

 軈て湯から上り、二人は晝近くに炬燵の膳についたが、湯にはいつてゐた時の氣持ちとは違つた、また寒々したお互ひの思ひが、二人の氣持ちを焦々させてきた。二本の徳利がついてゐたが、それも仲々すゝまない。大きい椀は冷えた雜煮だつたが、これにもあまり手が出ないでゐる。

 食事が濟むと、富岡は、ゆき子を殘して、一人で町へ出て行つた。時計を賣りに行くのだ。古いオメガで、一度、修繕に出したものだがこゝの拂ひの足しにするには、これ一つで充分だらうと、ゆき子の時計はそのまゝで、袍褞姿で出て行つた。戸外は、ちらほらと雪が降つてゐる。