浮雲 (Ukigumo) | ||
三十四
七草の日には、ゆき子は、伊庭の家には行かなかつた。富岡が歸つて以來、ゆき子は四五日は家のなかで暮した。何處へも出て行く氣がしなかつたし、何をしようと云ふ氣持ちもなかつた。心に突き刺した傷はなかなか、恢復する模樣もない。ゆき子は、伊香保のおせいのところと、横濱の蓑澤にゐると云ふ、加野のところへハガキを書いた。
おせいのところへは、わざと主人からよろしくと書いておいた。どのやうな反應で、おせいから返事があるかゞ、ゆき子には面白いいたづらでもあつた。加野には、近いうち是非尋ねたいが、何時が都合がよいかと云ふ問ひあはせの文面を出した。案外な事には、ハガキを出して間もなく、おせいの亭主が、雪もよひの日に、ゆき子を尋ねて來た。おせいは、ゆき子達が東京へ戻つて行つた翌朝、身一つで家を出てしまひ、いまだに戻つて來ないと云つた。
ゆき子は、富岡の事が頭のなかに浮んだ。一夜泊つて歸つて行つた富岡は、何處かでおせいと逢ふ約束が出來てゐたのかも判らないと思つた。二人のはつきりしたところを見たわけではなかつたけれども、見送りに來たおせいの涙は、あれは、たゞごとではない女の涙だと、ゆき子は心ひそかに睨んでゐたのだ。いま、かうして、おせいの亭主に尋ねて來られると、富岡が、おせいには所をいゝかげんに教へておいたと云つた事も、嘘にとれたし、何かゞ二人の間に約束されてゐるのではないかと考へられたのだ。逢つてゐる時には、富岡と別れる事ばかり思ひ續けてゐながら、富岡が細君のところへ戻つて行つたとなると、何故ともなく、富岡の思ひ通りに、伊香保で自殺してしまはなかつたのだらうかと、後悔もされた。いまになつてみると、死ぬ事は安安とした氣持ちでもあつたのだ。自分のひそかな絶望の形態が、竹矢來のやうに、自分の周圍に張りめぐらされた氣がした。ゆき子は、富岡の住所を、おせいの亭主にわざと教へてやつた。いまごろは何處かで、あの男は、おせいに逢つてゐるに違ひないのだ‥‥。
その翌る朝早くまた、おせいの亭主が尋ねて來た。
「富岡さんはゐましたよ。やつぱり、おせいの事は、何も御ぞんじない樣子で、驚ろいてゐましたがね‥‥。私も、あいつの行きさうな心あたりがないンで、警察にでも頼んでみようかと思ひます。富岡さんで泊めて下すつたンですが、蒲團がないンで、夜ぢゆう炬燵のごろ寢で、奥さんにも、えらい御厄介をかけてしまひました」
おせいの亭主はさう云つて、ゆき子の立場が初めて判つたらしく、少々馴々しいぞんざいさで、亭主は暗い小舍のなかへ上り込んで來た。
すると、あの時のおせいの涙は、やつぱり、自分の思ひ過しだつたのかともゆき子は考へたが、その時の氣持ちで、非常に冷酷になれる富岡の事だから、あれは本當に、富岡の云つたとほり、おせいにも亭主にも自分の住所をあかさなかつたのかも知れないとも思へた。もしも、おせいに行きあつてゐないとすれば、富岡の冷酷さがますます底氣味の惡いものに考へられて來る。富岡とおせいの間が普通ではない事を、ゆき子は女の敏感さで見拔いてもゐたし、第一、共同温泉で、新しいパンツを持つて來てやつてゐるおせいの女心が、ゆき子に判らない筈はないのであつた。おせいの女心を、そのまゝはぐらかして、逢つてゐないとなると、あれは旅の行きずりの、富岡の我まゝな一種の甘つたれだけであつたのだらうか‥‥。おせいとのかゝはりの續きを、そのまま旅先だけの事にして、打切つてしまふ冷酷さだつたのかも知れないと思つた。一時間ばかりもゐて、おせいの亭主は悄然と戻つて行つた。
ゆき子は富岡の本心を見たやうな氣がした。かへつて、もてあそばれたやうなかたちになつて、家出をした若いおせいに對して、ゆき子は何となく同情もしてみる。その日、ゆき子は加野から、病氣で寢てゐるので、むさくるしくはしてゐるが、何と云つても、なつかしいので、あのハガキの御心意が本當ならば、尋ねてお出で下さい、と云ふ返事を貰つた。そして、その文面の末尾には、富岡君にも逢ひたいので、よかつたら、お二人でお出掛け下さいと、小さく追ひ書きがしてあつた。ゆき子はかなり苦勞人らしくなつた加野の人なつゝこさが、たまらなくなつかしかつた。富岡や自分に對して、現在では何のわだかまりも、持つてゐさうもない文面でもあると、吻つとした。
ゆき子は思ひ切つて、横濱の蓑澤に加野を尋ねて行つた。ベアリング工場とか、印刷屋だのがごみごみした通りの、掘り返した道路に面した番地を、たんねんに探して、ゆき子はやつと、狹い路地の中に、加野の下宿先を探しあてた。バラックの小さい小舍同然の竝んでゐる、長屋のはづれに、アンゴラ兎を家のなかで飼つてゐる二階家に、加野は間借りをしてゐた。丁度、伊香保のおせいの家のやうなぐらぐらした家で、二階に加野は寢てゐると階下の子供が云ふので、ゆき子はかまはず二階へ上つて行つた。天井の低い、一部屋だけの、梯子段の上り口から、七輪や炭の俵の置いてあるところを通つて、破れた襖ぎはへ立つと、あの聞きおぼえのある、加野の疳高い聲で、
「むさくるしくしてますが、お這入り下さい」と云つた。
襖を開けると、加野は汚れた手拭で鉢卷きをして毛布を被つて寢てゐた。裸電氣が、まるで氷の袋のやうに、加野の頭の上でゆらゆらゆれてゐる。むくんで蒼黒い顔をしてゐた。昔のおもかげもないやうな風貌の變化である。
「まア! どうなすつて? お風邪ですか?」
足の踏み場もなく取り散らかつた、加野の枕もとに行き、ゆき子は加野をのぞき込むやうに云つた。加野はぽつと顔を赧くして、如何にもなつかしさうに笑つた。白い齒をしてゐた。
「駄目になつちやつたンですよ。こゝをやられて、昨夜も少し喀血したンです‥‥」
と、他人事のやうに云つて、壁ぎはの綿のはみ出た座蒲團を眼で差して、それに坐つてくれと加野は云つた。ぷうんと四圍に石灰酸の匂ひがした。
「躯がすつかり參つちまつてね。少しばかり、荷揚げの人夫をやつてゐたンですが、雨にあつて冷えたのがもとで、もう四十日ばかり寢込んでゐます。生きながらの死骸ですね。――富岡君と一緒ぢやなかつたの?」
「いゝえ一人で來たのよ。富岡さんとは久しく逢はないンですの‥‥」
「ふうん、結婚してゐないの?」
「誰と?」
「富岡君と幸福に暮してるのかと思つたンですがね‥‥」
「あら、私は一人だわ。富岡さんは富岡さんですわ。――加野さんの御病氣は、いつたい誰が看ていらつしやるの?」
「おふくろと弟がゐるンですが、弟はついこの先の文壽堂つて印刷工場に植字工で働きに出てゐます。戰爭中は特攻隊の一人だつたンですがね、いまは、植字工になつておふくろと二人暮しで、僕を待つてゐてくれたンです。何しろ燒け出されで、家もないもンで、こんな處にゐますがね。これでも、現在の僕達には、金殿玉樓ですよ」
紙を張つた硝子窓から、にぶい午後の陽射しが縞になつて、汚れた軍隊毛布に射し込んでゐた。ゆき子は人の身の上の激しいうつり變りを見るやうな氣がした。ひげののびた蒼ざめた加野の顔は、痩せてとがつてゐた。まんまるい子供の顔のやうだつた加野は、まるで十年も年を取つたやうな老けかたであつた。寢てゐる加野の現在の風貌からは、南方の生活の樣子は仲々思ひ出せないのである。まるで違つた人の顔をして、そこに横たはつてゐるのだ。二人には何の過去もなかつたやうな、赤の他人同志の間柄にしか考へられない。
「お變りになつたわね‥‥」
「吃驚したでせう?」
「えゝ」
「まア、今日は、昔話でもして行つて下さい。ゆき子さんのハガキが來た時、とても嬉しくてね‥‥。貴女は、僕になンか、たよりをくれる人ぢやないと思ひましたからね‥‥」
「まア、そんな事はありませんわ。富岡さんから、加野さんのアドレスを知らして來たものですから、とても逢ひたくて‥‥」
「ほゝう、そりやアどうも‥‥」
ふつと、お互ひに氣まづいものが心を走つた。一寸の間、二人は默りあつてゐた。
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