浮雲 (Ukigumo) | ||
四十三
三週間待つても、富岡が來てくれない事に、ゆき子は焦々して、雨の日であつたが、ゆき子は思ひ切つて、富岡を尋ねて來たのだ。扉を開けてくれた時の、富岡の表情を見てとり、ゆき子は、もう、どんなに努力しても、富岡との愛情は、今日で終りになるにちがひないと受け取つた。雨ゴートも、雨靴もないゆき子は、水色のブラウスに紺のスカートをはいて、毛深い脚をむき出したまゝ、部屋へ默つて這入つて來た。
「お邪魔ぢやなかつたンでせうか?」
富岡は、よれよれの浴衣の前をあはせて、窓ぎはに坐り、つとめて、ゆき子に笑顔を向けようと努力してゐる。
「大變だつたンですのね‥‥」
「君こそ、大變だつたンぢやないの?もう起きていゝのかい?」
「えゝ、さう何時までも、入院してる譯にもゆきませんものね‥‥。やつと元氣になりました」
佛印の頃は、人目のないところでは、すぐ、二人は寄り添ひ、手を握りあつてゐたものだがと、ゆき子は、索漠とした二人の現實を淋しいものに考へてゐる。
「新聞で讀みましたわ。ねえ、私、これ以上は待てなかつたのよ。きつと逢ひに行く。別れをしてゐないといふ事が、君の眞實なら、それを頼りに、逢ひに行くと書いて下すつた、貴方のお手紙にすがつて、私、やつと生きてゐたのよ‥‥」
ゆき子は、そこへへたばるやうに坐つて、富岡に云つた。富岡は變化のない白けた表情で、
「うん、僕が、みんな惡いンだよ。君の事は、片時も忘れやしないンだが、おせいの亭主の問題もあつてね、ごたごたしてたから行けなかつた‥‥」
「ぢやア、私が病院でうんうん唸つて、そのまゝ亡くなつても、貴方は來て下さらないつもりだつたンでせうね‥‥」
「いや、それは、また違ふよ。君が、大丈夫だと思ふから、安心してゐた‥‥」
「嘘! 嘘ですよ。貴方は、私に嘘云つてるのよ。もう、愛情も何もない癖に、弱氣で嘘云つて、私をよろこばせようたつて駄目だわ。――そんなに、貴方は、おせいさんがなつかしいのかしら‥‥。あんな女の何處がいゝの?」
ゆき子は、おせいへ對する嫉妬で、躯が震へて來る。石のやうに動かない男の心理が、ゆき子にかあつと反射して來て苦しかつた。こゝろをぶちまけてしまつては、二人の間が駄目になると思ひながらも、ゆき子は吐き捨てるやうに云つた。
「子供の事なンか考へてもゐないくせに、子供を生んでくれつて云つたのは貴方ぢやありませんか‥‥。その癖、一度だつて來た事もないし、病院へ行つてからも、見舞ひにも來てくれない。離れてゐると、貴方と云ふひとは離れつぱなしなンです。――かうして逢つてる時だけ、お上手を云つてくれるのよ。心にもない事を云つて、それで、おせいさんも迷はしてしまつたンでせう?貴方つてひとは、心中するつもりでゐても、女の死ぬのを見て自分だけゆつくりその場をのがれて行くひとです。ひとを犧牲にして知らん顔してるンだわ。――私、おせいさんが憎い。おせいさんの亭主だつて憎いわ。いまから考へてみると、何故、伊香保なンか行つたのだらうつて思ふの‥‥。私、口惜しくて仕方がないわ。貴方つて云ふひとが‥‥。さつぱりしてしまふつもりでゐて、かうして尋ねて來なければならない、私の氣持ちが、私は、いゝかげん厭になつてゐるンです。心のなかゞ、少しも動かないのよ。考へてゐる事にこりかたまつて、少しもそこから出て行けないの‥‥。うまく云へないけど、貴方をとても怒つてゐて、貴方が好きだつて云ふ事は、私、とても哀しい‥‥」
ゆき子は、坐つたまゝベッドへ凭れて泣いた。ベッドは軋んだ。富岡は吹き降りの雨をじいつと眺めながら、ゆき子の泣き聲を聞いてゐた。俺に、いつたい、どうしろと云ふことだらう‥‥。此の女は、何時まで昔の思ひ出のむかしを、金貸しのやうに責めたてるのだらう‥‥。昔の二人の思ひ出の爲に、いまだに、その思ひ出を、金貸しのやうにとりたてようとしてゐる。ゆき子の泣き聲を聞いてゐると、急に富岡はむかむかして來た。
「頼むから、俺を一人にしておいてくれツ。何もやる事がないンだ、俺と云ふ人間は、もぬけのからなんだから、君のやうに、さうおしつけて來たつて仕方がない。――伊香保でお互ひさつぱりしてしまつた筈ぢやないのかい?」
「厭よ、そんな事云つたりして‥‥。私がおせいさんに敗けたみたいだわ。前のやうに、優しくなつてよ‥‥。別れてしまふのは厭なの‥‥。」
「俺と一緒にゐれば、君は駄目になつてしまふ。もう、日本へ戻つた時から、二人は別々の道を歩んでゐた方がよかつたンだ。世の中も、あの時とは變つて來てゐるしね。君は君の人生へふみ出してくれたらいゝンだ‥‥」
「まア! 何て、怖い事を云ふのよ、貴方つてひとは‥‥。私に、こゝで死んでみせろつて云つてるみたいね‥‥。私が、自分の人生を歩むのだつたら、もうとつくに、貴方には逢つてはゐないわ。――それ、でも、貴方の本當の氣持ちなンでせうね。私に飽きてしまつたから、本當の事が云へるンでせうね‥‥。私、何を云はれたつて驚かないわ。えゝ、さうなンです。おせいさんと二人で暮していらしたこの部屋の空氣が、貴方と私に邪魔をしてるのかも知れないけれど‥‥。もし、こゝに、おせいさんのお化けが出て來たら、私云つてやる。一生、富岡さんとは別れてはやらないつて云つてやる‥‥」
「おい、聲が大きいぢやないかツ。こゝはアパートと同じなンだから、つゝしんで貰ひたいね。おせいの事なンか、いまはもうどうでもいゝし、かへつて、あいつが死んでくれて清々してゐる。向井さんに濟まなかつたと考へてゐる位だ、かうして俺は自由に、いまは何處へでも歩いて行けるンだが、向井は、何處へも歩いて行ける自由のないところに、いまも坐つてゐるンだぜ。俺が、焦々してる氣持ちも、少しは考へてみてくれないのかい?」
「私が、おせいさんの亭主の事を考へなくちやいけないなンて、妙ぢやないの‥‥。厭ですよ。私と貴方との間に、あのひと達が何のかゝはりがあるンでせう‥‥。勝手に貴方のひきおこした事件で、私の知つた事ぢやないわ。何を云つてるンですツ‥‥」
ゆき子は、まだ、深くおせいを愛して、そのおもかげを忘れかねてゐる富岡のふてぶてしさが口惜しかつた。口惜しさに心が昂ぶり、眼が据つて來ると、ゆき子は急にめまひがして、くらくらとそこにつゝぷしてしまつた。下腹に澁い痛みを感じ、肩の力が拔けてゆくやうだつた。
富岡はあわてゝゆき子の肩を強くゆすぶつた。
「おい、どうした! 氣分が惡いのか?」
雨はいつそう激しくなり、風も強く吹きつけて來た。富岡は、ゆき子を抱いてベッドに寢かしつけたが、額に青い筋が浮き、唇は白く乾いて、頬の肉が、ひくひくと、ひきつゝてゐる。富岡は、自分がよつぽどひどい事を云つたのだと判つた。ゆき子は躯全體が病人のやうになつてゐた。兩の手は何かを掴まうとして、十本の指が、蝉のやうに動いてゐる。爪には黒く垢がたまつてゐた。
金盥に水を汲んで來て、富岡はタオルで、ゆき子の額を冷やしてやつた。つくづく自分が厭になつてゐる。富岡は急に金がほしくなつた。ゆき子が昏々と眠りかけて來たので、そのまゝ机に向ひ、富岡は林業と植物に就いての、佛印の思ひ出の原稿に向つた。
――檳椰(ビンラウ)と蒟醤(キンマ)については、安南に美しい傳説がのこつてゐる。
安南の王であるフン・ヴォンの四世の時代である。廷臣カオの家に、タン、カン、と云ふ二人の兄弟があつた。小さい時に父を亡くした兄弟は特に仲がよかつたが、偶然身をよせたルウと云ふ家に一人の娘がゐて、兄のタンは娘と相思の仲になり結婚してしまつた。
そこまで筆を運んでゐる時、富岡は、ゆき子と初めて相知つたダラットの高原の景色が心を掠めた。オントレの茶園をおとづれた時のゆき子の赤縞のギンガムのスカートが、昨日のことのやうに瞼にちらつく。若々しく少女のやうに美しかつたゆき子のなれの果てが、いま、自分の部屋のベッドに横はつてゐるのだとは、どうしても思へない。だが、心はおだやかに靜まつてゆき、思ひのほかにペンははかどり、軈て空腹をおぼえて來た。茶箪笥からパンを出して來て、富岡は電熱でコオヒイをわかした。
茶箪笥の枕時計を見ると、もう一時近くである。パンを頬ばりながら、ふつと、富岡がベッドを振りむくと、額のタオルの下から、ゆき子は眼を開けてゐた。
「君も、食べたらどうだ?」
富岡は、新しく茶碗にコオヒイを淹れてやつた、ゆき子は眼を開けたまゝ天井を見てゐた。
「起きて、コオヒイを飮まないか」
ゆき子は素直に起きて、富岡からコオヒイ茶碗を受取つた。
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