University of Virginia Library

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三十五

「おふくろも働きに出てゐるンで、お茶もあげられませんが‥‥。かへつて、病氣がうつらないからいゝかも知れませんよ」

 皮肉な云ひかたで、加野はふつと冷く笑つた。

 ゆき子は、その言葉に、千萬の刺を感じたが、さからはないやうにして默つてゐた。加野は時時激しく咳をしながら、癖のやうに、頭を振つた。

「冷やさなくてもいゝのですか?」

「胸を冷やすといゝンですがね、いまは何の根氣もありません。おふくろと弟の邪魔をしないやうに生きてゐるのが、せめてもの私の感謝ですからね‥‥。人の邪魔をしないと云ふのが、此の頃の僕の悟りです。何時でも、僕は死ぬ事には自信がつきましたよ。でも、何ですな、まア、折角、神より頂戴した生命なンだから、一日でも生きのびた方が、死んで灰になるよりは、いくらかましですから‥‥」

「心細い事を云はないで、早くよくなつて下さるといゝわ‥‥」

「絶對に、よくなりませんね‥‥」

「どうして、そんなに心細い事をおつしやるのかしら‥‥。氣の持ちやうですわ。昔の元氣な加野さんに戻つてほしいわ」

「昔の加野さんは、戰爭で死んだと思つてゐます。この戰爭で、僕は身心ともにめちやくちやになりましたよ。ひどい目にあつたもンですよ。でもね、これも仕方がないとあきらめてゐます。時々、佛印の事を思ひ出して、僕の生涯のうちで、一番印象深い時代だつたなアと思つてね‥‥。どうです、その後、手の傷は痛みますか? 左の腕でしたね」

 ゆき子は腕の傷を覺えてゐてくれる、加野の純情さにほろりとしてゐる。

「貴女には、本當に濟まないと思つてゐますよ」

「厭ッ! 私こそ、加野さんに、我まゝをして濟まないと考へてるンですよ。あの頃は、どうかしてたのね。みんな狂人の状態だつたのね」

「全く狂人の状態だつたな。貴女がわざと僕の刀の方へもたれかゝつて來たやうな氣がしてね。僕は富岡を刺すつもりで、部屋へ行つたら、ゆき子さんがゐたので、なほさらかあつとしてしまつたンです。いまから考へると、馬鹿な事をしたものだ」

「もう、その話はやめて‥‥」

「ごめんなさい。つい貴女に逢つたら、昨日の事のやうに思へたものですから‥‥」

 ゆき子は、藥臭い部屋の空氣に壓迫されて、立つて、硝子戸を少し開けた。冷い風がすつと流れこんでいゝ氣持ちだつた。

「富岡君は元氣?」

「えゝお元氣らしいわ」

「あいつは運のいゝ奴ですね。人の落ちぶれには理解を持つて、さうした人間の運命をなつとく出來る顔でゐながら、自分は住み心地のいい椅子にかけて、仲々動き出ようとしない男ですからね。いや、それは惡口ぢやありませんよ。だから、彼の運のいゝところも、その邊にあるンぢやないかと思つて、早く見習つておくべきだと、今頃になつて、僕はさう思ひ出しましたよ」

「でも、いまは、あまり、運のいゝ方でもなささうですよ」

「さうですかね‥‥。貴女が、ひいきめに見てるンでせう? 家も燒けなかつたし、仕事の方も、いゝ共同者をみつけて、うまい事やつてると云ふ話ぢやありませんか?」

 ゆき子は、伊香保へ富岡と心中をしに行つて果せなかつた事を思ひ出してゐた。加野は何も知らないから、あんな事を云つてゐるのだと、

「とてもいま、困つてはいらつしやる樣子ですわ。家もお賣りになつて、御家族を郷里の方へおかへしになつて、自分は當分身輕るになつて働くつて、云つてらしつたわ」

「働くたつて、僕のやうに、濱の人夫になつて、日給二百圓の風太郎になる氣は、あいつには出來ませんよ。何十貫と云ふ荷物かつぎをやつて、こんな躯になるのも、あいつには喜劇に見えるだらうな‥‥」

「冗談ばつかり、加野さんは、わざと、求めてそんな事をおつしやるのね。どうした心境で、人夫になンてなる氣持ちにおなりになつたの?」

「そりやア、食ふ爲ですよ。氣の利いた仕事はありませんでしたからね。てつとり早いのがいゝと思つて、泥棒になるよりはましだと思つて始めたんです。――ペンより重いものを持つた事のない役人生活をしてたものには、とてもこたへましたね‥‥」

「さうでせうね‥‥」

 土産に林檎を五ツ六ツ買つて來たのを、ゆき子は開いて、庖丁を探してむいた。くるくるとむきながら、ゆき子は鼻の奥の熱くなるやうな氣がした。もういくらも生きてはゐないだらう加野の爲に、出來るだけの親切をしてやりたい氣持ちだつた。むいたのを小さく切つて加野の口へ入れてやると、加野は齒の音をさせて、林檎をむさぼるやうに食つた。

「色んな事が私達にはあつたけど、やつぱり、生きてゐれば、かうした時代も見る事が出來たし、私達もお目にかゝれたぢやありませんの? だから、うんと榮養をとつて、元氣になつて下さらなくちやいけないわ」

「榮養か‥‥。さうですね。金さへあれば、二三年は壽命がありますでせう」

「でも、お母さまも、弟さんも大變ね‥‥」

「全く御氣の毒のかぎりと云ひたいところだ。此の頃はおふくろも、弟も、僕には飽々してる模樣ですよ」

「そりやア、貴方のひがみだわ」

「ひがみですかね‥‥」

 加野は實際、富岡のやうな、紙一重のあぶないところを、一生涯、自分の直接性をもつてすり拔けてゆける幸運には、あやかる事も出來ないと思つてゐた。富岡の事を考へてゐると自然に腹が立つて來る。いつも、するりと身を交はして、中々溺れる方へは頭をつゝこまない。加野は昔の事を思ひ出してむつつりした。ゆき子は林檎の皮を新聞紙にくるんでゐる。そして、何か云ひかけようとしてやめた。加野は、ゆき子が、少しも昔の情熱的なところを見せないで、悠々と落ちついてゐる事に、謎だなと、此の女の大膽さが不思議でもあつた。話に聞けば、いまだに一度も郷里へ戻つた事もなく、引揚げて戻つたまま、獨りで放浪してゐるのだと、枕もとで引揚げ以來の事を話されてみると、女は魚の肌のやうに、底意地の冷たいものだと思へた。

「富岡と云ふ人間は、いまにきつと、あいつの才能でまた息を吹き返します。それが出來る男なンだ。あいつは‥‥。去年の五月に海防から船に乘つたと聞いて、その時の事を後で聞いて、つくづく運のいい奴だと思ひましたよ。インテリをよそほつてゐると仲々戻れないと思ひ、軍屬で、佛印へ來て、林野局のお茶わかしとか、使ひ走りに來てゐたのだと、あいつが云つたさうです。波止場の檢問所の前で、澤山の將校から調べられた時、富岡は最も愚直なスタイルをつくつてね、英語やフランス語でべらべらと將校連が話しあつてゐても、その方をちらつとも見ないのださうですよ。こいつ、言葉が判ると思はれると、殘されるのださうです。その次に日本地圖を見せられて、四國は何處かと聞かれた時、あいつは、九州をさつと指差したのださうです。學力は小學校卒業程度に見せてね。どうです? うまく芝居を打つぢやありませんか、そして、まんまと關門をくゞり拔けて、自分は誰かの名前をつかつて、まんまと早い船に乘つて、日本へ戻つて來た。全く英雄的人物ですよ‥‥」

 ゆき子にはそれは初耳だつた。

 富岡ならば、或ひはやりかねないであらうと思へた。おせいとの問題も、本人は女の示す好意を、その女の好意として受け取つたに過ぎないのであらう。おせいは、あの時、富岡のなぐさみものになつてしまつたのかも知れない‥‥。

「僕は、富岡とゆき子さんは、その爲に、早く戻つたのかと思ひました。でも、船は一緒ぢやなかつたさうですね?」

「いゝえ、別々ですわ‥‥」

 加野の犯罪は戰爭最中で、しかも役人として、最初の醜い事件として、サイゴンの憲兵隊では、ひどく亂暴にあつかはれたさうである。

 一時間位で、ゆき子は何とも息苦しくなり、加野に別れを告げて外へ出た。戸外へ出ると吻つとして、いゝ空氣を吸つたやうな氣がした。心のうちで、加野をみじめな男だと思つた。のびのびとした、いい家の息子だと聞いてゐたゞけに、この急激な變りかたは、何ともゆき子には氣の毒に思へた。

 加野は加野で、久しぶりに日本でめぐりあつてみたゆき子の現實の顔は、昔とはいくらも變つてはゐなかつたけれども、自分が富岡と血鬪してまで此の女を欲しがつてゐたのだらうかと、妙な氣がしてゐたのはたしかである。女の腕に偶然に傷をつけて、加野はそれだけの償ひをしたものゝ、眼の前に坐つてゐるゆき子を見た時には、こんな女の何處に誘はれて、あんな事になつたのかとをかしかつた。あの時の、出先の日本人の生活には、一種の魔がさしてゐたのかも知れないのだ。みんな、虹のやうなものに醉つぱらつて暮してゐたやうな氣がして來る。

 ゆき子が戻ると云つた時に、加野はそれでも、もう少しそこへ坐つてゐて貰ひたかつた。逢ふまでは、ゆき子を、まるで女神のやうに考へてゐたが、逢つてみると、加野は負け惜しみでもなく、人間的なゆき子の現實に、白々と夢の覺める思ひだつた。

 ゆき子の方も亦、加野に逢つて後悔してしまつた。行かなければよかつた氣がした。あの時のまゝの加野さんと考へておく方が、よかつたやうにも思へる。‥‥富岡が、加野に逢ひたがつてゐるゆき子を、甘いと云ひ、物好きだと云つたが、おせいに嘘の住所を教へた、富岡の心の底がいまになつて判つたやうな氣がした。その場かぎりの感情で、物事を切り裁いて行く男の強さが、ゆき子にはいまでは憎々しい程の魅力になつてもゐる。

 初めに會つた、眼の色が本當なのよと、南の流行歌を唄つた富岡の自然のつぶやきが、自分や、おせいの身に、いまふりかゝつて來てゐる。

 黄昏の寒い新橋驛にゆき子は降りてみた。寒い風が吹いた。自動車乘場の方へ歩きかけると、「あらツ」と云つて、派手なグリンの外套を着た女が、ゆき子のそばへ走つて來た。女はゆき子の肩を叩いた。

「まア!」

 ゆき子は眼を瞠つた。一緒にサイゴンへ行つた、篠原春子が走り寄つて來たのだ。ゆき子はなつかしかつた。

「どうしていらつしやるの! 何時お歸りになつて?」

 ゆき子は早口に、篠原の引揚げる時の消息を聞きたがつてゐる。

「私、さうぢやないかと、貴女が改札を出る時から見てゐたのよ。――お元氣? 私は去年の六月に引揚げて來たの。家は浦和に疎開してたので、燒けなかつたのよ。私、引揚げてすぐ、英文タイプを習ひに行き、丸の内に勤めを持つたの。‥‥貴女はいま何をしてゐるの?」

 タイピストをしてゐるにしては、篠原春子は派手な美しいつくりをしてゐた。