University of Virginia Library

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五十八

 たゞ漠然と、こゝまで來た感じだつたところだつたので、富岡は、ゆき子の發病には、相當の衝撃を受けた。

 二日目は快晴であつた。

 雨はからりと霽れたが、風の強い日であつた。女中は、照國丸といふ船が、朝九時に出船しますと、夜明け頃、火鉢の火を運びに來た時に知らせてくれた。だが、ゆき子の病状はいぜんとしておさまつてはゐない。昏々と眠り、眠りのなかで咳をした。その咳を聞いてゐると、富岡は、自分の皮膚をこすられるやうな痛さを感じ、その痛みは、少しづゝ齒痛にも似てきた。

 廊下の窓から外をのぞくと、寒々とした夜明けの空に、櫻島が、石油色に明けそめた空に溶けこんでゐた。海岸添ひには、貧弱な木造家屋の倉庫が竝んで、屋根の上から、船のマストが格子のやうに見えた。まだ、街上には燈火がともり、その街路の歪んだ影の上に、夜明けの月が、白く光つてゐた。富岡は、まだ何處も寢靜まつてゐる港の街の夜明けを、じつと眺めてゐた。今朝は、このままで出發するにはむつかしいと思つた。思ひきつて、一船遲らせるより仕方がないと、枕もとの火鉢に行き、中腰になつて煙草をつけた。ゆき子は、眼を開けてゐた。

「どうだ! 氣分は‥‥」

 ゆき子は、笑ひかけようとして、笑へないのか、眼を大きくあけたまゝ、富岡の顔を下から見上げてゐる。富岡は、ゆき子の額に手をやつてみた。案外冷たかつた。その大きく見開いた眼は、何とも云へない淋しさのこもつた、見馴れぬ表情だつた。富岡は、急にいとしさがまし、膝をついて、ゆき子の顔の上に、自分の顔を持つて行つた。

「船を遲らせたから、大丈夫だ。これから、切符を切りなほして貰つて來るから、安心して寢てるといゝ。焦々したつてつまらないからね‥‥。いゝかい、疲れが出たンだよ。雨にあたつたのがいけなかつたンだね」

 富岡は、言葉を切るやうに、ゆつくり云つた。ゆき子は眼を開いたまゝうなづいてゐる。富岡はゆき子の手を取つて、自分の頬にあてた。ダラットの佛蘭西人の外科醫院で、加野にゆき子が、切りつけられた傷の手術に立ちあつた時の、丁度あの時の眼の色だと、富岡は、佛印での思ひ出が、うづくやうに胸に來た。あの病院で、湖の夜明けの空を眺めながら二人の宿命的な一種の旅情に就いて、恐怖に近い嘔吐を催した事を思ひ出してゐた。旅空でめぐりあつた女だから、こんな風になつたのではないかといふ、反省もしてみた。だが、安南人の女中に對する行きずりは、どうなんだと問はれてみると、これもまた、旅情かなと、富岡は、自分をひそかに冷笑した。小麥色の肌をした女中のニウの、初々しいおもかげが、富岡の胸に熱く燒きついて來る。二度と相ひ逢ふ事の出來ない女だけに、富岡は、死んだおせいとともに、なつかしかつた。だが、いまから考へてみると、佛印での生活は、旅愁なぞといふ生やさしいものではなかつたやうだ。死刑を宣告された人間が、その時から、誰にでも、物優しくなるやうな、そくそくとした淋しさで、人の心を戀ひしがつてゐたやうなものだつた。日本軍隊の、獨裁政權のなかで、何一つ、自由な孤獨を許されなかつた、精神の乾きを、ゆき子の躯によつて求めた自分の身勝手さが、今日、こゝにその結果をもたらしたのだと、富岡は、償ひの氣持ちをこめて、強く、ゆき子の手を握り締めてゐた。

「一人で、あなた、船に乘るンぢやないの?」

 ゆき子が、弱々しく云つた。

「馬鹿! 一人で、船に乘ると思つてたのかい?」

 ゆき子は、子供のやうにうなづいた。富岡は肉親的な氣持ちで、ゆき子の眼尻に流れる涙を指ではじいてやつてゐる。大丈夫だよといふ思ひをこめて、強く、ゆき子の手を、二三度握り締めてやると、富岡はその手を離して、茶を持つて這入つて來た女中に、時間を聞いた。

「七時頃でッせう」

 と、女中は、腕時計を見ながら、時計に耳をつけてゐる。

 富岡が階下へ降りて行くと、玄關の時計は、七時を少し過ぎてゐた。――富岡は船會社へ行つた。切符の切り替へを頼み、四日ほど遲らせて、また、こゝから就航する照國丸に乘る事にきめた。序でに港へぶらぶらと出てみると、白い照國丸は、大きな煙突から煙を噴き、船の起重機は、材木を吊りあげてゐた。波止場には、船客相手の、果物店が竝んでゐる。九州の果てに來て、果物店の林檎の山を見ると、富岡は、不思議な氣がした。ゆき子の爲に、林檎を一貫目ばかり、緑に染めた籠の中に詰めて貰ひ、船のそばまで行つてみた。もう船客は、列をなして竝んでゐた。どの旅客も、小さい硝子の金魚鉢を抱へてゐる。照國丸は、まるで佛印通ひの船のやうだつた。さうした、錯覺で、富岡は、今朝、このまゝゆき子と此の船へ乘れたなら、どんなにか愉しい船旅だつたらうと思へた。だが、この快適な船は、屋久島までの航路で、それ以上は、今度の戰爭で境界をきめられてしまつてゐるのだ。此の船は、屋久島から向うへは、一歩も出て行けない。南國の、あの黄ろい海へ向つて、この船は航路を持つてはゐないのだ。波止場は、乘船客や、荷運びの人夫で犇き立ち、棧橋は、藁屑や木裂や、林檎の皮が、散亂してゐた。

 この敗戰も、云はゞ、なしくづしの日本の革命だつたのだと、富岡は起重機のぎりぎりと卷きあげられるのを、呆んやり眺めてゐた。出航を知らせる汽笛が鳴り、笛が吹かれた。子供や女が、乘船客を見送りに來た群衆のなかをくゞつて、テープを賣り歩いてゐる。富岡も赤いテープを一つ買つた。昔ながらの服裝をした事務長が船のタラップを渡つて棧橋へ降りて來た。乘船が開始され、タラップのそばには、白服のボーイや、巡査が立つてゐる。

 乘客はどれもかなりな荷物を持つて、船の中へ押されて行つた。

 軈て、九時一寸過ぎに、二度目の汽笛が鳴り、船はゆるく岩壁を離れ始めた。棧橋の見送り人はどよめき、船のデッキには少しづゝ、荷物をおろした乘客が竝び出した。テープが澤山の小鳥のやうに、棧橋から船へ飛んだ。赤、白、コバルト、黄、緑とテープの虹が、風をはらんで大きくゆらめく。富岡は、棧橋に向つて手を振つてゐる、七ツ八ツの少年に向つて、赤いテープを投げつけたが、そのテープは、事務員風な女の額に當り、その女が兩手で富岡のテープを受けとめた。色の黒い、みすぼらしい服裝の女だつたが、愛らしい顔をしてゐる。色のさめた青いジャケツを着てゐた。女はテープを切れないやうに高く持ちあげてゐた。富岡は、船の動きのおそいのに根氣をなくしてしまつたのか、途中で、テープを離して、棧橋を、船會社の方へ戻つて來た。何處にも目的はなく、近づくべき道はない氣がした。思ひ出したやうに、海を振り返ると、案外船は小さくなつてゐる。テープの散らかつた棧橋には、まだ、見送り人が手を振り、帽子を振り、ハンカチを振つてゐた。濁つた海水には、眼に沁みるやうな、赤や黄のテープが浮いてゐる。

 富岡は人に尋ねて、郵便局に行つた。

 屋久島の營林署に電報を打ち、ハガキを買つて、富岡は松井田の兩親へあてゝ、鹿兒島まで來て、船を待つてゐる音信を書いた。廣い郵便局は、割合空いてゐた。六角のピラミッド型の机に向ひ、富岡は、そなへつけのペン軸を握つてゐたが、ふつと、自分の隣で若い女が、電報用紙にトウキョウと書いてゐるのを眼にとめて、なつかしくなつた。この女も東京へ電報を打つてゐるといふ、「東京」といふ大都會が、富岡には、世界の果てのやうに遠く思へた。

 富岡にとつて、東京はなつかしい土地である。おせいの事件がなかつたら、かうした、自殺にもひとしい、絶望的な世捨て人の境界にはいる事もなかつたであらう。掃除の行きとどいた朝の郵便局の光線は、海の底のやうに靜かで、平和であつた。隣の女は、格子のはまつた窓口へ電報を打ちに行つた。靴のかゝとが、ひどくいたんでゐる。黒い外套も疲れてゐた。富岡は、ハガキをポストへ入れて、郵便局を出た。