浮雲 (Ukigumo) | ||
六
ダラットにあと十六キロといふ、プレンといふ部落から曲りくねつた勾配になり、ランビァン高原への九十九折のドライヴウェイをトラックはぐうんぐうんと唸りながら登つた。夕方であつたが、時々沿道の森蔭に白い孔雀がすつと飛び立つて一行を驚かせた。
夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別莊風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色の花ざかりの別莊もあれば、テニスコートのまはりに、モミザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたモミザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた。
高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に寫る蜃氣樓のやうにも見えた。ランビァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがへしてくれた。以前は市の駐在部であつたといふ白堊の建物の庭にトラックがはいつてゆくと、庭の眞中に日の丸の旗が高くあげてあつた。地方山林事務所と書いた新しい看板が石門に打ちつけてある。その下に、安南語と佛蘭西語で小さく墨の文字で書いた板も打ちつけてあつた。湖の見える應接間で、一行は事務所長の牧田氏に會つた。ゆき子はこゝに當分働く事になり、ゆき子だけ安南人の女中に案内されて自分にあてがはれた部屋へ行つた。二階の一番はづれの部屋で、湖や街の見晴しはなかつたが、北の窓からは、ランビァンの山が追つてみえた。庭にはいかだかづらの花が盛りで、毛の房々した白い犬が芝生にたはむれてゐた。
ゆき子は長い旅の果てに、やつと自分の部屋に落ちついたのである。チーク材の床には敷物もなかつたが、かへつて凉しさうだつた。何處からか運んで來たのであらう、粗末なベッドに、腰高な机と椅子が一つ。白いペンキ塗りの狹い洋服箪笥が、暗い部屋の調和を破つてゐた。ねぐらを求めて小禽が、夕あかりの黄昏のなかに騒々しくさへづつてゐた。茂木技師や、瀬谷たちは、ダラット第一級のホテルである、ランビァン・ホテルに牧田氏の自動車で引きあげて行つた。牧田喜三は、鳥取の林野局をふりだしに、農林省へはいつた人物ださうで、四十年配の太つた小柄な男であつた。昭和十七年の暮に、軍屬として、赴任して來た。部下は四人ばかりあつたが、みんなそれぞれが、山の分擔區に視察に出掛けてゐる樣子で、安南人の通譯が二人と、林務官一人、混血兒だといふ女の事務員が一人ゐる。――ゆき子はへとへとに疲れてゐた。ランビァン・ホテルへ一行とともに夕食の案内を受けたが、氣分が悪くて行く氣がしなかつた。ベッドの毛布の上に轉がつてゐると、トラックの震動がまだ續いてゐるやうで、耳の中がふたをしたやうに重苦しかつた。昏々と眠りたかつた。眼を閉ぢると、蝉の啼きごゑのやうな、森林のそよぎが耳底に消えなかつた。洋服箪笥のペンキの匂ひが鼻につく。
その夜、ゆき子は、安南人の女中のつくつてくれた日本食を、廣い食堂で一人で食べた。中央には岩のやうなシュミネがあり、入口近いところにピアノが一臺光つてゐた。のりのきいたテーブルクロースの白い布に手を置くと、黄色の手が、安南人の女中の手よりも汚れた感じだつた。ガラスのフィンガボールにいかだかづらの花が浮かしてある。ソーセイジのやうな赤黒いかまぼこや、豆腐汁がゆき子には珍しかつた。女中はもう三十は過ぎてゐる年配であるらしかつたが、眼の綺麗な女だつた。額は禿げあがり、澁紙色の凹凸のない顔に、粉を噴いたやうな化粧をして、ねり玉の青い耳輪をはめてゐる。彼女は、かたことの日本語を少し話した。網戸をおろした廣い窓へ、白い蛾の群れが貼りついてゐた。食事を終つた頃、突然、前庭の方で、自動車のヱンジンの音がした。牧田所長がもう戻つて來たのかと思つたが、それにしては馬鹿に歸りが早いと、ゆき子はきゝ耳をたてゝゐた。女中が走つて出て、甘い聲で、ボンソアと庭口へ呼んだ。軈て、男の聲で何事か、ごやごやと話す聲と足音がして、ぱつと食堂へ這入つて來たのは、サイゴンの宿舎で會つた、ゆき子の注意を惹いてゐた、あの男であつた。脊の高い、さくさくした足どりで食堂へ這入つて來るなり、ゆき子を見て、一寸驚いた風で、輕く眼で挨拶をして、また、さつさと廊下へ出て行つた。
ゆき子の食事が終つてからも、女中は仲々食堂へは戻つて來なかつた。ゆき子は赧くなつてその男に挨拶を返したが、部屋を出て行つたきり、一向に戻つて來る氣配もない樣子に、焦々してゐた。いまゝで死んだやうにぐつたりしてゐた氣持ちのなかに、急に火を吹きつけられたやうな切ないものを感じた。あわてゝ、しのび足で部屋へ戻り、ゆき子は洋服箪笥の鏡の中をのぞいて、濃く口紅をつけた。髮をくしけづり、粉白粉もつけて、また、急いで食堂へ戻つたが、網戸を叩く白い蛾の氣忙はしい羽音だけで、廣い食堂は森閑としてゐる。暫くして、女中がコオヒイを持つて來たが、すぐ、女中はコオヒイを置いて去つて行つた。いくら待つても、男はつひに食堂へは出て來なかつた。ゆき子は氣拔けしたやうな氣持ちで部屋へ戻つて行つた。廣い階段を誰かゞ上つて來る。ゆき子は激しい動悸をおさへて、扉に耳をあてゝゐた。ゆき子は物音が消えると、また食堂へ降りて行つた。所在なくピアノの蓋をとり、女學校時代よく彈いてゐた濱邊の歌を片手でぽつんぽつんと鍵を叩いてみた。壁には森林に就いての統計のやうなものが硝子縁のなかにはいつてゐる。カッチヤ松とか、メルクシ松、ヨウ、カシ、クリカシなぞの標本圖をたどつてゆくと、ゆき子はつくづく遠いところに來たやうな氣持ちがした。誰も食堂へはやつて來さうもないので、ゆき子は庭に出てみた。星が澄んできらめき渡り、ゴム風船をすりあふやうな、透明な夜風がゆき子の絹ポプリンの重たいスカートを吹いた。何處からともなく、香ばしい花の匂ひが來る。小徑の方で、ボンソア‥‥と挨拶してゐる女の聲がしてゐる。薄い雲が星をかいくゞつて流れてゐる。湖は見えない。部屋へ戻つて窓に凭れてゐると、暫くしてから、階下の何處かで電話のベルがけたゝましく鳴り、それからすぐ、牧田所長の自動車が戻つて來た樣子だつた。急に階下がざわめきたち、數人の男達の笑ふ聲が聞えた。
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