浮雲 (Ukigumo) | ||
五十七
Ilale diable au corps だ。惡魔が俺に乘りうつゝてゐる。加野が、ダラットで、よく使つた言葉だつた。その惡魔は、誰と聞くと、加野はゆき子をあごで差した。
汽車はあまり長くて退屈な旅であつた。富岡は退屈もしないで、よく、むしやむしやと、食ひ散らかしてゐるゆき子に呆れてゐる。
京都には朝着いた。ゆき子がゐなければ、富岡は、一日位は、京都へ降りてみたいところである。
ゆき子は持ちつけない金を持つたせゐか、京都でもホームに降りて、食ひ物を買つて來た。車窓へ乘り出して見てゐると、外套を着込んだ背中が、もう、さかりの女を過ぎた感じのみすぼらしさに見えた。煙草も買つてくれたやうだ。ちらと、こつちを振り向いたゆき子の顔が、ひどく蒼ざめて乾いてゐた。
大阪、神戸を過ぎ、舞子の海邊を通過する時、にぶく鉛色に光つた海が、車窓に白く反射してきた。
ゆき子は、外套の襟をたてゝ深い眠りに落ちてゐた。博多停りの三等車は、割合混んでゐた。通路にも坐り込んでゐるものがあつた。
いろんな食べ殻と、人いきれで、スチームのない晝間の車中は、割り合ひむしむししてゐた。よく眠つてゐるゆき子の顔を富岡は呆んやり眺めてゐた。この四五日の同棲で、眼の下は三角に薄黒くなり、唇の皮が割れて、紅が筋のなかに固まつてゐた。眉は立ちあがつてゐたし、小さい鼻の頭には膏が浮いてゐた。時々、瞼が神經的にぴりぴり動いてゐる。
惡魔が眠つてゐる。だが惡魔は眠つたふりをして、富岡の眼の行き場をよく知つてゐるのだ。眠つたまゝゆき子は笑つた。富岡はあわてゝ眼をそらした。
「また、私の事、何か云ひ出すンでせう?」
さう云つた眼を開けて、ゆき子が、漆の蜜柑をむき出した。冬枯れの錆びついた田畑や煙突だけになつた、瓦礫の工場地帶や、山や川や海が、轟々と汽車の車輪に刻まれて後へ走り去つて行く。
博多へ着いたのは夜更けであつた。雨が降つてゐた。
二人は疲れてゐたが、すぐ、鹿兒島行きに乘り替へた。もつと疲れ切つて、何も彼も麻痺してしまひたかつた。ゆき子は、少しづゝ心細くなつて來てゐる。夜の雨は、光つて、汚れた硝子窓に降り込めてゐる。ゆき子は、幾度も切れ切れの夢を見たが、サイゴンから、ヂリンを經て、ランビァン高原へ行くダラットへの自動車の動搖を感じてゐた。
眼が覺めるたび、雨の中を走る夜汽車の現實が、ゆき子には、心細くなつて來るのだ。案外、日本も廣いものだと思へた。富岡は病人のやうにぐつすり眠つてゐる。
長い旅路でもあつた。東京を遠く離れてみると、伊庭との生活の思ひ出が、ずたずたに切り裂かれてゐた。熊本で雨が少しばかりやんだ。車中の顔も、次々に變つていつた。言葉も、九州なまりになり、四圍には、二人に關聯したものは何もなくなつて來た。ゆき子は、疲れた足を富岡の脚の間へぐつとのばして眼を閉ぢた。
何處からも危險はおそつて來ないと思ふにつけ、ゆき子は伊庭の怒つた顔ををかしく思つた。こゝまで來てしまへば、もう、私を引きもどすわけにも行かないのだわ‥‥。もつともつと、大日向教の御繁昌を祈りますと云ひたいところである。
大津しもは、これからも厚化粧をして、あの金庫の前に、でんと坐り込んでゆくであらう。ゆき子は、時々頭の上の網棚のボストンバッグに注意をしてゐた。いま、自分の頼るべきものは、このボストンバッグ一つきりである。
鹿兒島へ着いたのは、朝であつた。土砂降りの雨であつた。輪タクに案内させて、港に近い、千石町とか云ふところの、小さい宿屋に案内された。
二階の窓からは、幕を張つたやうに、大きい櫻島が見え、櫻島は雨で紫色に煙つてゐた。
ゆき子は、疲れてしまつて、潮臭い疊に脚をのばした。
女中に、富岡が屋久島通ひの船は、何時出るかと聞いた。雨や嵐になると、何日も船は出ませんといふ返事だつた。屋久島へ行く船便を調べて貰ふやうに頼んで、富岡は外套のまゝ疊に寢轉んだ。
寢ながら櫻島が見えた。海は漆のやうな青い色をしてゐる。小さい船が、ごちやごちやと波止場に寄り添つてゐた。茶を運んで來た女中に、富岡はビールを頼んだ。
「隨分遠いところへ來たわね。こゝから、また船に乘つて、一晩かゝるなんて、島流しみたい。一人ぢやア、私、とても來られないわ」
「四年も五年も、これから暮すんだよ」
「さうね‥‥」
「どうだ、歸るのなら、こゝからなら、丁度いゝよ」
「まだ、そんな事云つてるの?」
「君が、一人ぢや來られないと云ふからさ」
「貴方と二人だから來たんぢやありませんか‥‥。私つて、可哀さうな女だと思はない?」
「恩を被せられちや、やりきれないね」
近所で、ラジオが、やかましく煎りつくやうに鳴つてゐる。ゆき子は外套をぬぎ、宿の褞袍を肩に引つかけて、吹き降りの廊下の外を眺めた。
「恩を被せるンぢやありませんわ。私は、そんなけちな氣持ちはないのよ。でも、貴方だつて、誰もゐないよりはましぢやないの? 私、屋久島に住めなかつたら、こゝへ來て、料理屋の女中をしたつていゝわ。女つて、それだけのものよ。捨てられたら、またそれはそれにして、こんなところでやつてゆく氣もあるのね‥‥」
「誰も、捨てると云つてやしない」
女中がビールを運んで來た。
泡立つビールを、ぐうつと一息に飮んで、富岡は初めて息をふきかへした。
女中は、二日ほど船が出ないと知らせてくれた。こんなところで、二日も泊つてゐるのは退屈だつたが、船が出ないのならば仕方がないと、富岡も廊下に出て、吹き降りの海上を眺めた。
「貴方は、雜誌社には、屋久島へ行く事をおつしやつた?」
「あゝ」
「伊庭が、怒るでせうね」
「追つかけて來るかい?」
「まさか、それほどのお金でもないでせう?」
「いや、仲々大金だからなア‥‥。ひよいとしたら、警察沙汰にしないとも限らんぜ」
「大丈夫よ」
大丈夫よと云ひながら、ゆき子は、部屋に戻り、自分もビールを飮んだ。冷いビールは腹にしみた。だが何となく、氣分が惡くなつて來た。
「奥さま、お風呂如何でございますか?」
女中が、風呂を知らせてくれた。
奥さまと云はれて、ゆき子は、誰にもそんな事を云はれなかつただけに、ふつと眼を瞠つて、富岡を眺めた。
「奥さん、先に、風呂へ這入つて來なさい」
富岡が、からかつて云つた。富岡はくたくたに疲れてゐるのだ。風呂へ這入る氣もしない。船會社へ行つて、船の切符を買ひかたがた、船の出る日を聞いて來ると云つて、富岡は宿の番傘を借りて外へ出た。教はつた船會社への廣い荒凉とした道を、海の方へ向つて歩いた。初めて、自分一人になつたせゐか、富岡は清々した氣持ちだつた。いまがいま、船が出ると聞けば、自分一人でも乘つて行きたかつた。青いペンキ塗りのバラック建ての船會社へ行くと、宿で云つてゐたとほり、この嵐が濟まなければ、出航しないのだけれど、たぶん、明後日頃は出るだらうといふ事だつた。富岡は、屋久島までの二等切符を二枚買ひ、乘船名簿にゆき子を妻と書いた。
歸り、賑やかな通りへ出て、富岡はウイスキーを買つた。宿へ戻ると、ゆき子は蒲團に寢て、蒼い顔をしてがたがた震へてゐた。
「どうした?」
「ねえ、寒くて、震へがとまらないのよ。お醫者さんを呼んで貰へないかしら‥‥」
ゆき子は富岡の腕を掴んで、小刻みに震へてゐる。風邪をひいたにしては樣子が變であつた。唇に血がにじんでゐた。額に手をやつたが、大して熱はなかつた。だが、もしも、この宿で寢込まれるやうになつては、どうにも仕方がなくなるのだと、富岡は宿に頼んで醫者を呼んで貰つた。蒲團を三枚ばかりかけてやつたが、ゆき子は、それでも寒いといつて震へがとまらない。醫者は仲々來てはくれなかつた。富岡は、風邪藥を買ひに外へ出て行つたが、不吉な豫感がした。
風邪藥を一服のませて熱い茶を與へてみた。まだ震へがとまらない。一時間位して、若い醫者がやつと來てくれた。女中に手傳つて貰つて、洋服やシュミーズをぬがせて診て貰つた。醫者はカンフルやビタミンの注射をしてくれた。二日ほど休養すればよくなるだらうといふ事で、富岡は吻っとした。何となく、亡くなつた邦子の病状に似てゐるやうな氣がした。富岡は、ゆき子の顔に、そんな氣配を感じるのだ。
ゆき子は、鎮靜剤を貰つて、昏々と眠つてゐる。自分に遭遇する一つ一つの事柄が、富岡には、宿命的に固い扉に押しつけられてゐるやうな氣がしてきた。邦子が寢ついた時も、醫者は二三日でよくなるだらうと云つたものだ。だが、結果は二三日ではよくならなかつた。此の宿は、空襲後に建てたバラックらしく、五部屋位のものだつたが、案外客はたてこんでゐて、壁隣りは賑やかに笑ひさゞめいてゐる。自分達の部屋だけが陰氣だつた。
富岡は、褞袍にも着替へないで、ゆき子の枕もとで、ウイスキーの栓をあけて飮んだ。雨風はます/\ひどくなつて、家が時々風にゆれた。電氣もつかないので、夕方近くになるにつれて、部屋の暗さが重苦しかつた。櫻島が、あまり大きく窓に擴がつてゐるせゐか、部屋のなかに、櫻島がたふれかゝつて來るやうな壓迫を感じた。
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