University of Virginia Library

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五十四

 氣持ちよく別れてしまへないかと云はれて、ゆき子は、富岡の顔をみつめた。女房も女もいらないといふ、無情な言葉は、たとへどんな考へがあつたにしても、自分の前で云へる言葉ではないではないかと、ゆき子は、暫く默つてゐた。

 富岡は、いつもにない妙な醉ひかたをして來た。

 卓上に肘をついて、盃を唇に持つてゆきながら、ゆき子を見てゐたが、その眼はうつろであつた。かつてない、冷い眼の色で、これがこの男の持つて生れた表情なのではないかと思へた。頬は痩せこけてゐる。額に垂れた髮をかきあげるたび、その手で髮の毛をむしる癖。眼のふちはただれ、褞袍の胸を擴げて、赤黒い胸をぴちやぴちや叩きつけてゐるのも、ゆき子には、いまゝでの富岡にないものを見たやうな氣がした。富岡を、いま初めて見るやうな氣持ちで、じいつと見てゐると、女を誘ふやうな、むせかへる男の體臭が感じられた。この體臭が、女を誘ふのかも知れないと、ゆき子は、富岡に盃を差した。自分も醉つて來た。

 ゆき子は、無茶苦茶に醉ひたかつた。金を持つて、逃げ出して來た情熱を判つて貰へないとすれば、自分の今朝の考へは、淺はかなものであつただらうか‥‥。どうせ、富岡と一緒になつたところで、うまくゆけるとは思はなかつたが、ゆき子は、富岡を手放す氣にはなれなかつた。

 醉ひが激しくなるにつれ、ゆき子は、皮膚のすべてが、毒河豚でも食つたやうに、じいんとしびれてきた。醉つて、洗ひざらひ富岡に毒づいてやりたかつた。ゆき子は、その醉ひのなかで氣がつくたびに、また、佛印の思ひ出を話してゐる。

「えゝ、けつして、私は、貴方のやうに、絶望はしてゐません。生きてみせますとも、せいぜい、貴方は勝手に女をつくればいゝのよ。河内のキャンプで、私は、ベラミーつて小説を讀んだけど、貴方は、あの中の主人公ね‥‥。でも、あの主人公は、宿無しの風來坊だから、女を梯子段にして出世するンだけど、貴方は、女だけを梯子にしてる‥‥」

 富岡は、そんな小説は讀んではゐなかつたが、女を梯子にするとゆき子に云はれて、むつとした。ゆき子の腕を掴み、引きずり寄せた。

「そんな事を云ふために俺をこゝへ呼んだのかい? 俺は、お前が、千萬圓の金を持つて來たつて、それをあてにするやうな男ぢやないンだぞ‥‥。教會の金を盜んだつて、大手柄みたいな顔をしやがつて‥‥。そんなに俺がなつかしかつたら、何故、伊庭のところに行くンだツ」

「あらツ、何をおつしやるのよ。自分で勝手な事ばかりしてゐて‥‥」

 富岡は、掴んだゆき子の手を放した。

「君も、せいぜい男を梯子にするがいゝ」

 富岡は、ごろりと横になつて、眼を閉ぢた。何の聯想からか、ユヱに着いて、クレマンソウ橋のそばの、グランド・ホテルに泊つた日の事を思ひ出してゐた。ユヱの山林局に、マルコン氏を尋ねるべく、ユヱに數日を送つた事があつた。村木種子の譲與を頼みこみに行つたのだが、あのグランド・ホテルで、そつくり返つてゐた、自分が、いまはみるかげもない落ちぶれやうで、女の盜んで來た、六十萬圓をひそかにあてにしてゐる‥‥。富岡は、肚の中で、自分をにやりと笑つてゐた。ゆき子が、女を梯子にすると云つたが、或ひはさうかも知れないと思へた。

 富岡は、このごろ、以前の農林省の友人の世話で、南の果ての屋久島へ行つてみないかといふ話があつた。もとの官吏に逆もどりするのは、富岡としても心は進まなかつたが、他に何の手段もないとなれば、また、もとの古巣へ戻るより仕方がない。

 それと、もう二つばかり仕事があつたが、一つは、和歌山の高池町にある林業試驗場へ、技師として勤める口であつた。

 富岡は、高池町の林業試驗場へ行くよりも、南の果ての孤島である、屋久島の營林署へ行きたかつた。高池町の林業試驗場が、氣がむかなければ、同じ、和歌山の伊都群九度山町の、高野營林署にも、君の行くポストはあると、その友人は勸めてくれた。いづれ、どうにもならなかつたら、頼みに行くよと云つて別れたが、富岡は、東京でまごまごしてゐるよりも、いつそ、思ひ切つて、もう一度、山の中へ這入りこむのもいゝのではないかと思つた。それにしても、南の果ての屋久島へ行くのはいゝが、病妻や、兩親を捨てゝ行くには、相當の用意もしなければならないと考へてゐたのだ。だが、いまは、邦子も亡くなり、兩親も松井田へ引つこんでしまつた。いまは、何一つ足手まとひはない。明日からでも、友人は、富岡の屋久島行きの辭令を出してくれるに違ひない。

 屋久島が、どんなところかは、富岡はさつぱり知らなかつた。たゞ、原生林の屋久杉の産地といふだけしか、富岡には判つてゐないのだ。

 まるで、無人島のやうな氣がした。友人は、屋久島は、營林署だけで保つてゐるやうな島だが、人情は純朴で、一ケ月は雨の降りつゞいてゐる島だが、覺悟が出來るかいと笑つて云つた。

 いつそ、また、官吏に逆もどりするのならば、和歌山の高野山あたりに行くよりも、屋久島がいゝと思つた。地圖を見ると、種子島の近くで、圓い島である。

 富岡は眼をつぶつて、暫く、屋久島行きを考へてゐた。ゆき子が自分の脇腹のところに這ひ寄つて來て、何か、くどくど云つてゐたが、富岡は、うとうととしてゐた。

 ゆき子は、富岡のそばへ這ひ寄つて行くと、富岡の胸に顔をつけて云つた。

「どうして、そんなに、心が遠くへ行つたの? どうして、そんなに、急に冷くなつたンですか? 伊庭のところへ行つたから、富岡さんは怒つたの?」

「いや、もう、怒るも怒らないもない。終戰後、みんな、こんな氣持ちになつてしまつたんだな‥‥。自分を基にして判斷する力を失つてしまつたンだよ。目的は、自分がつくるものぢやなくて、周圍がつくつてくれるやうになつたンだ‥‥。この國柄が、俺達をつくるやうになつたンだよ。昔の夢を追つて、君の、いま持つてる金で、二人で當分、面白をかしく暮したところで、どうにもならない。根のない浮草みたいな我々だが、それで、二人が、何とかなれるとも思へないしね‥‥」

「死ねばいゝわ。伊香保で、死ぬ筈だつたのを、死ねなかつたンですもの、お金をつかひ果したら、死ねばいゝわ。貴方は、私に、死んでくれつて云つたぢやないの?」

「死ぬのは痛いよ」

 富岡はふつと、惡靈のなかの自殺の方法のところを思ひ出してゐた。大きい家ほどもある、大盤石が、頭へ落下して來るとすれば、痛いかどうか‥‥。百萬貫の石を想像し、その下に立てば、痛いだらうと恐怖にかられる。石そのものには苦痛はないが、石に對する恐怖で、苦痛を感じる。富岡は、いまは、どのやうな手段の死も、一種の石に對する恐怖のやうなものを感じるのだ。

「死ぬのは、とても痛いことだぞ」

「死ねば、痛くはないでせう?」

「いや、うまく死ねるといゝが、うまく死ねなかつたら痛いぞ‥‥。」

「痛いのは我慢出來ます。貴方に、きらはれるのは我慢出來ない」

 ゆき子は、富岡の褞袍の襟を掴み、吊り上げるやうにしてゆすぶつた。

「きらつてはゐないさ。好きだから、もう、このへんで、お互ひの生き方を變へようと云ふンだ‥‥。君は、伊庭のところへ戻るのもいゝし、その金で、何か仕事にとりつくのもいい。おゆきさん、世の中といふものは、そんな風に變つたンだよ。僕達のロマンスは、もう、終戰と同時に消えたンだ。いゝ年をして、いつまでも、小娘みたいな夢をみるのはやめたがいゝ。僕だつて、君と離れてゐると、時々は、君との夢を見て、一種のエクスタアシイを感じる時もある。人間とはそんなもンだ。――さア、こつちい向いてくれ。今夜はゆつくり話しあかさう。お互ひに、妙な別れはしたくないね。君をきらひで、別れるンぢやない。きらひだつたら、こんなところへのこのことやつて來るもンか‥‥」

 富岡は、むつくり起きて、冷えた徳利の酒を、手酌で盃についだ。

 女中が、不意に寢床を敷きに來た。

 富岡は、熱い酒を注文した。女中が寢床を敷く間、二人は縁側の椅子に腰をかけてゐた。寒い廊下であつた。

 蒲團の敷ける間、二人は、卓子にむきあつて默つてゐた。軈て部屋いつぱいに蒲團が敷かれ、床の間のところに、火鉢と茶餉臺とが片寄せられ、そこに、酒の支度が出來た。火鉢には炭がつがれ、青い炎を上げてゐた。

 二人は火鉢を狹んで坐つた。

「何でも話して頂戴」

「そんなに、詰めよられても、大した話もないがね‥‥。死ぬの生きるのといふことは、もう、二人とも卒業していゝんだぜ」

「勝手な人ね」

「どうしてだ?」

「どうだつて事でもないけれど。私は、死ぬ氣持ちで、出て來たのよ」

「死ぬ氣持ちか、そりやアいけない。まつぴらだな‥‥。マタイ傳かな、狹き門よりはいれ、ほろびに到る門は大きく、その路は廣く、之よりはいるもの多しだ。いのちに到る門は狹く、その路は細く、之を見出す者少なし‥‥。つまり、二人とも、もう、ほろびに到る門の前を素通りしたンだ。僕はさつき云つた、石の恐怖は澤山だからね」

「ぢやア、私、一人で死にます」

 富岡は、にやにや笑ひながら、冷酷な表情で、

「どうとも、勝手にするんだな」

 と、小さい聲で云つた。