University of Virginia Library

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三十九

 顔色の惡い、ゆき子の顔を、じいつとみつめながら、富岡はポケットから煙草を出して火をつけた。ソーダ水を二つ注文した。ゆき子はぐつたりと板壁に凭れて瞼を閉じた。何も考へるよゆうもない。そのくせ、湖水の白い飛込臺に立つてゐる、ランビァンの或日がほうふつとして浮んで來た。富岡もパンツ一つで黄昏の湖水に泳いでゐる。近所のスタジオでやつてゐる、ラグビイの騷々しいあの時の音も耳について、じいつとしてゐると、まるで泳ぎのあとのやうな疲れかただつた。

 富岡は一服ゆるく煙を吐き出しながら、

「ねえ、君はいま、いろんな事を考へてゐるンだらうが、こんなになつてしまつたンだよ。僕は、どんなにでもつぐないひをする。君ならばすべてを判つて貰へると思ふンだ」

「伊香保では、やつぱり、おせいさんと、わけがあつたのね」

 富岡は默つてゐた。

「あなたつて、いけないひとね?」

 いけないひとねと云ひながら、それでは、自分はどうなのだと、ゆき子は自問自答してみる。ほんのわづかではあつたが、ジョウとの關係はどうだつたのだらう‥‥。淋しくて淋しくてやりきれなくて、ジョウとあんなわけになつてしまつたのだ。富岡は別にとがめだてはしなかつた。さうした、人間の、或る時の心の空虚は、やつぱり、誰かに手を差しのべて行くより仕方のないものだらうか。伊庭との昔のくされ縁にしたところで、一種の空虚さがさせたわざなのである。

 自分だつて、富岡と同じやうな事をやつてゐたのだ。只、それを、氣がつかないまゝでやりすごしてしまつたゞけである。

「別に、判らないわけぢやないけど、やつぱり、吃驚しちやつたのね。‥‥伊香保で、おせいさんが、あのバスのところで泣いたのは、私、忘れなかつたけど、でも信じてはゐたのよ。貴方の氣持ちを‥‥。私も、うぬぼれてゐたのね。――でも、仕方がないわ。仕方がない事なのよ。私、それで怒つて、子供をおろしてしまふ氣になつたわけぢやないの‥‥。もう、前から、何時か、何時かとは考へてゐたンです。今日で、ふんぎりがついたのよ。強くならうと思つて‥‥。いろんな事を、毎日々々我慢して暮してゐる事を思へば、子供をおろす位何でもないわ。身輕るになつて働きたいのよ。‥‥私達の子供を産んぢやア、不幸だと思はない? たとへ、貴方が引き取るにしても、何もしてやれないし、私だつて困つて身動きも出來ないと思ふのよ。それを、一度相談して、二人でなつとくのゆくまで話しあつて、子供の始末をしたいと、私思つてゐたンです。――おせいさんと一緒にいらつしたつて、かまはないでせう‥‥。貴方に都合のいゝ生活ならね。あのひとも、貴方を心から好きな樣子だし‥‥。奥さま、何處がお惡いの?」

「胸なンだ‥‥」

「もう、よほど、いけない?」

「長く靜養すれば助かるだらう‥‥」

「これから、貴方も大變ね。お勤め、きまつたンですつて?」

「あゝ、友人のやつてゐる石けん會社で、大した事もないがね。それでも、よく面倒をみてくれるンで、まア、いまのところは甘へてゐるンだ」

 紅いソーダ水の麥蕎をぐつとすゝりながら、富岡は、ゆき子の美しい手を見てゐた。柔らかさうな美しい手をしてゐた。富岡はゆき子が不憫であつたが、おせいの事もどうにも仕方のない不憫さである。

「僕は、いまゝでに、一人も子供がないンで、どうしても産んでほしいと思ふンだ。おせいの問題も、長續きはしないし、家さへみつかれば、いまにも引越したい位だ。おせいも、亭主と綺麗に別れたわけぢやないし、あの部屋は、おせいのかくれ家みたいなものなンだよ。――亭主は、いまだに、おせいの消息は判つてはゐないンだ。僕だつて厭なンだし、あの家でも、僕はあいまいな眼で、見られてゐるンだ」

「おせいさんは、何かしてるンですか?」

「新宿のバーの女給をしてゐたンだが、二三日前から齒が痛くて休んでゐたンだ」

「でも、おせいさんは、とても、貴方に惚れてゐますよ。案外、一生あのひとゝ貴方は暮すやうになるンぢやない? 一緒にゐるものが勝ね。去るもの日々にうとしのたとへもあるンですもの‥‥。ねえ、佛印の思ひ出だつて、もう、ひところのやうに、めつたに思ひ出さなくなつたし、夢も見なくなつたぢやない? そんなものね」

「僕は時々見るよ。君の事を考へると、ダラットの生活を思ひ出してやりきれなくなるンだ‥‥」

「私、此の間、一月に、加野さんをお見舞ひに行つたの、手紙に書いたかしら?」

「あゝ、知つてる。加野も大變だな、氣の毒な奴だ‥‥」

「悟つてはいらつしたやうだけど、痩せて、元氣がなかつたわ‥‥」

「大變な愛國者で、正直一途な男だつたね」

「さうね。私達のやうに、ずるい人ぢやなかつたわね‥‥」

 喫茶店を出て、また、目的もなく歩き出したが、四圍はすつかり暗くなり、凉しい夜風が吹いてゐた。富岡は歸る樣子もなくゆき子について來た。

 上着をぬいで、肩に引つかけて、ぞろりぞろりと靴を引きずつてゐた。

「くたびれてるンでせう?」

「いや、水虫が出來て、痛いンだよ」

「でも、やつぱり、二人で歩いてゐると、何だか、肉親みたいね。貴方、心のうちでは、私の事よりも、おせいさんでいつぱいなンでせうけど、私ね、私が勝手に、貴方の事を肉親らしく考へるのは自由ね。笑ふ?」

「笑ふもンか‥‥。おせいの事よりも、おせいの亭主に濟まない氣がして、毎日が罪人みたいにきつぷせな生活なンだぜ。意氣地がないくせに、おせいの強さに引つぱり込まれて行くンだ。」

「おせいさんと、いまに心中でもするやうになるンぢやない? もしもの事があれば、あのひと、毒でものみかねないから‥‥」

 富岡もさう思つた。ゆき子に云ひあてられたやうな氣がした。おせいの爲に、自分の生活が、一日一日駄目になつてゆくのがよく判つてゐるのだ。

「毎日、喧嘩してるンだ‥‥」

「どうしてなの?」

「僕が、おせいにぴつたりついて行かないと云ふ事なンだよ。無智な何も知らない女なンだが、直感のすばらしくきく女でね。一度、自分で思ひこんだら、仲々、もとへ戻してやるのが大變なンだ」

「ぢやア、今夜も大變ね」

「まア、そんな話はやめよう。今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供の事は、それまで待つててほしいな。案外、君が、僕の氣持ちを判つてくれたンで、何だか、氣持ちがとても樂になつたし、晴々した。おせいの事にこだはるやうだが、きつと、近いうちに、これも、解決するつもりでゐる」

「そんな、急に、坊ちやんみたいな事云はなくてもいゝわ。なりゆきに任せてゐます。私、もう、本當を云へば、私の事だけで、やぶれかぶれなのよ。おどかして云つてるンぢやないの‥‥。判るかしら?」

 二人は陸橋のところまで來て、白い石の欄干に凭れて暫くそこへ立つてゐた。橋の下を轟々と電車が走つて行く。