浮雲 (Ukigumo) | ||
十
富岡は面白くもなかつたので、食堂の前で加野に別れると、さつさと二階へ上つて行つた。夜光時計を見ると、十一時をかなりまはつてゐた。部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまつてゐた。にぶい動作で、片づけてゐる。富岡はゆつくり片づけてゐる、ニウの樣子にやりきれない淋しさになり、裏梯子から標本室の方へ降りて行つた。標本室に燈火をつけて、圓い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に竝んだ、乾いた標本を、ひとわたり眺めながら、何のために、こんなところに所在なく腰を掛けてゐるのか、自分で自分が判らなくなつてゐた。
部屋へ戻つて、久しぶりに妻へ手紙を書かうと思つた。サイゴンへ旅をして、十日あまり、故國へは音信もしてゐない。しみじみした淋しさの思ひは、妻へだけは云へるやうな氣がした。あらゆるものゝ乏しい内地にあつて、云ふに云へない苦勞を、一人で續けてゐるであらう妻の姿が、ほうふつとして浮んで來る。サイゴンで買つた、ミッチェルの口紅や、粉白粉を、近々好便を選んで内地へ送つてやりたいと、富岡は妻の邦子に、そんな事も書き添へてやりたかつた。
咽喉が乾いたので、標本室を出て、食堂へ行つた。加野がまだ食堂で殘りのコアントロウをかたむけてゐた。
「幸田女史は戻つたやうかね?」
「あゝ、戻つて、自分の部屋へ行つた」
富岡は、水を飮み、またゆつくりと二階へ上つて行つた。部屋には、もうニウはゐなかつた。富岡は扉に鍵をかけて、ベッドへ後ざまに寢轉んだ。バネがきしきしとたはむ音を聞きながら、じいつと、天井のくもり硝子の電燈を見つめてゐた。心に去來するものは、何もなかつた。水のやうな、淋しさのみが、しいんと、濡れ手拭のやうに、額に重くかぶさつて來る。横になつてしまふと、妻へ手紙を書く事も、ひどく、億くうになつて來た。軈て、富岡は黄ろいパジャマに着替へた。思ひをこめて洗濯してある、アイロンのすつきりしてゐる寢卷き‥‥。ニウの情けが哀れであつた。
毛布を蹴つて、シーツに樂々と横になる。――食堂の扉がきいつと軋んで、ゆつくり二階へ上つて來る加野の足音がした。加野の奴、加野の奴と、ふつと、そんな言葉を胸のなかで富岡はつぶやく。幸田ゆき子のすくすくした躯つきが、妻の邦子に何處か似てゐた。第一に、言葉のニユゥアンスが通じたといふ、妙な發見が、富岡の心に響いた。同じ人種の男女に丈、通じあふ、言葉や、生活の、馴々しさが、こゝに一人現はれた、幸田ゆき子によつて示されたかたちだつた。――加野は、今夜は仲々眠れないと、富岡は、ふつと微笑した。軈て隣りの部屋では、亂暴に椅子を引き寄せたり、洋服箪笥を開けたりしてゐる、加野の焦々した氣配が聞えてゐた。
富岡は寢つかれなかつた。標本室の電燈を消す事を忘れてゐたやうな氣がして、富岡はまた、のこのこ起き出して、廊下へ出て行つた。階下へ降りると、ニウが水色の部屋着を着て、標本室の入口に立つてゐた。
「燈火を、消し忘れたンで、降りて來たンだ」
富岡が、安南語でさゝやくやうに云つた。
「私も、いま、燈火を消しに來たのです」
ニウはさう云つて、自分で、長い部屋着の裾を前でつまむやうにして、脊延びをして、壁のスイッチを切つた。富岡は重たくぶつつかつて來る女の躯を抱きしめた。ニウが何か云ひさうだつたので、富岡はあわてゝ、ニウの唇に接吻した。長い接吻のあと、小柄な女の躯を壁に立てかけるやうにして、富岡は二階へ上つたが、ニウが、かすかに笑ひ聲をたてたやうな氣がした。二階の梯子を上りながら、富岡は銅像の團十郎のやうに、眼をむきながら、ゆつくりと部屋へ這入つた。
靜かな晩である。
風の吹く日は、山鳴りのやうな、松の唸りがするものなのだが、今夜は松の唸りも聞えなかつた。富岡は、松の森林を瞼に描いてみた。馬尾松の房のやうに、長い葉の頼りなさや、メルクシ松の箒のやうな形状、カッチヤ松の淡い色彩。小旗のやうな破れかぶれの枝工合なぞが、次々と瞼に現はれては消える。――南ボルネオの山林に、メルクシ松をたづねて歩いた時の山野の思ひ出が、また瞼にかけめぐつて來る。バンヂャルマシンの町で見た、五月信子の、慰問の芝居なぞがなつかしかつた。演しものは、「時の氏神」だつたかな‥‥。海のやうに廣い、黄濁した河幅いつぱいに、ヒヤシンスに似た、イロンイロンの大群の水草の流れには、富岡は驚いたものだつた。あれもこれも、過ぎ去つた一夢であらうか‥‥。植物は、その土地についたものでなければ、うまく育たないものなのだと、現に、このダラットの、山林事務所の庭先に、植栽されてゐる、日本の杉の育ちの惡さを、富岡は、民族の違ひも、また、植物と同じやうなものだと當てはめて考へてみる。植物は、その民族の土地々々にしつかり根づいたものではないのかと、妙な事を考へ始め出した。――ダラット近邊の、メルクシ松の分布圖面では、メルクシ松が、三五、○○○ヘクタールと云つたところで、どさくさで這入りこんだ、こんな、鈍才の日本の一山林官が、いつたい、どんな風に、よその土地の數字をのみこめると云ふのだ‥‥。幹形、木理麗はしいと云つたところで、大森林のメルクシ松を、世界の何處へ賣り出さうと云ふのだ‥‥。長年かゝつて成長させた、人の財寶を、突然ひつかきまはしに來た、自分達は、よそ者に過ぎなからうではないか‥‥。いつたい、これだけの雄大な山林を、日本人がどう處理してしまふのだらう‥‥。人間の心は自由である。富岡はうつらうつらと、とりとめもない、幼い事を考へてゐた。一向に眠れない。
富岡は燈火を消した。
燈火を消すと同時に、隣室の加野が、ドアを開けて、また、ゆつくりした足音をたてゝ、階段を降りて行つた。‥‥まさかと、妙な考へを打ち消しながら、富岡は耳をそばだてゝゐた。――暫くして、深い井戸に、水滴のしたゝるやうな音階で、食堂のピアノがぽつん、ぽつんと鳴つた。長い間の、山歩きの禁慾生活が、加野を物狂ほしくしてゐるのだと、富岡はきゝ耳をたてゝゐた。頭をしづかに枕に沈ませる。さつき、ニウとひそかに接吻した、自分のいやらしさが、急にむかついて來た。加野も自分も、戀ではないものを戀してゐるのだ。二人とも、内地にゐた時の、旺盛なヱスプリを失つてしまつてゐる。ダラットの高原に移植されて、枯れかけてゐる日本の杉のやうなものになりつゝある、自分達を、富岡は、何氣なく、南洋呆けかなと、咽喉もとでつぶやいてみるのだつた。
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