浮雲 (Ukigumo) | ||
六十二
一息づゝゆき子が荒い呼吸をするたび、富岡は、汗で煮えるやうに熱い、ゆき子の手を握り、じいつと疊に頭をつけて、その呼吸を數へてゐた。
愚かなるものよ。今宵汝の靈魂とらるべし、然らば、汝の備へたるものは、誰がものとなるべきぞ‥‥。富岡は、祈つてゐるうちに、こんな言葉を思ひ出した。不吉な氣がした。何處で讀んだ文章だつたかも忘れたが、いま、突然、かうした言葉が、瞼に浮んで來た。女の手をじいつと握り締めながら、女の死を願つてゐるやうな空間もある、その思ひを、拂ひのけようとあせりながら、富岡は、時々、「ゆき子! ゆき子!」と小さく、病人の耳もとで呼んだ。ゆき子は、熱に浮かれた眼を薄く開けては、力なく四圍を眺めた。富岡は、ゆき子の心臟へ耳をあてゝみた。割合しつかりした音をたてゝゐる。手の脈を取つてみる。富岡は、さうしてゐるうちに、自分の方が氣が狂ひさうだつた。耳の中にまで、雨音は溢れていつぱいに詰りさうだ。かうした夜が、如何にもランビァン高原の或日に戻されたやうな氣もして來る。この二人は奇妙なつながりであつた。富岡は、こゝ數年の波瀾縦横な戰ひのなかで、何處かに自分の人間らしさを失つて來てゐるやうな氣がしてゐる。自分といふ人間は、何時も空洞なハートを持つてゐるやうな人間に思へて來る。生身な身振り音調のかげに隱れて、がらんだうなハートで歩いてゐる化物のやうだ。自分で自分が、富岡は無氣味であつた。
ゆき子を愍むよりも、まづ、自分を、富岡はもてあましてゐるのだ。それにしても、夕方までも雨はやまなかつた。
夕刻頃から、ゆき子は、昏々と眠つた。少しばかり熱もひいたやうだ。四時間ごとに注射したペニシリンが、利いたのかも知れない。それにしても、ゆき子の生命に、少しでも、この藥が反響したといふ事は、富岡には、嬉しかつた。富岡はすつかり疲れてしまつてゐる。夜になつて、また薯燒酎を、ゆき子の枕許で飮んだ。少しづゝ醉つてゆくうちに、そばに口を開けて眠つてゐる、どろどろの病人の姿が、いやらしく見えて來た。この女の運命に、自分といふものが反映してゐるとすれば、それは、過去の思ひ出だけのものぢやアないのかと、こんなところにまで駈け落ち同樣に追ひ込まれて來た自分達の考へが、狂人じみて考へられて來る。思ひ出といふ奴に、女は、いつまでも戀々としてゐるものだ。思ひ出と運命といふものを、女は何時も感違ひしてゐる‥‥富岡は、昔、ゆき子に、君はどうせ練馬大根の産地で生れたのだらうと、毒舌を吐いた事があつたが、締りのない寢顔が、浮氣者らしく見えた。加野は、三宅某女優に似てゐると云つた事があつたが、じいつと見てゐると、歌舞伎役者の家にでも生れた、不器量な娘のやうに、妙に間のびのした顔でもある。
富岡は臭い燒酎をしたゝか飮んだが、ふだんよりも、一層生々として來た。女中が大丈夫ですかと云つたが、富岡は、すわつた眼で、大丈夫だよと云つた。酒の醉ひは、思ひ出とか、運命とか、あいまいもこたるものは、けろりと忘れさせてくれる。ふいごのやうな激しい風が全身に浸みとほつて、彼は自分を肴に、自分を觀察してゐた。
何もね、こんなところへ來なくてもいゝんだが、東京で乞食をする氣はないからだよ‥‥。藝は身を助けるとは云ふものゝ、深山へ這入つて、仙人のやうな仕事が身につくかどうかだ。ゆき子を道づれにして、容赦なく、女の思ひ出の伴奏者になりおほせてはゐるものゝ、ゆき子の持ち逃げした金にも、多少の魅力はあつたかも知れない。何しろ、神樣の金だから、あらかたな御利益はあるに違ひない。神は殘酷なほど公平だ‥‥。雨樋から溢れるやうな雨音を聞いてゐると、富岡は、一晩ぢゆうでも酒を飮みたくなるのだ。
女を愛する力はもう、すつかりなくなつてしまつたよと、富岡は、七八本の空の徳利を床の間に竝べ、女のつまらなさをすつかり了解したやうな晴々しさで、ゆき子の寢床の裾にへたばつてしまつた。夜更けになつて、咽喉が燒けるやうに乾いた。鼻血でも噴くのではないかと、富岡は手さぐりで火鉢のやかんを取り、口をつけた。雨は、小降りになつたのか、雨滴の間遠うな音がしてゐる。
時計を見ると四時近い。富岡は、アルコールランプに火をつけて、注射針を出した。
富岡は頭がぐらぐらした。
これも一つの習慣である。世の中の看護婦の心理はこんなものであらうかと思つた。病人に對して、非常に無關心でゐながら、習慣で、夜中でも起きる。たゞそれだけの事だが、病人は、あたりまへのやうに、顔をしかめて、辛い表情だ。
「氣分は、どうだ?」
「えゝ、大分いゝわ」
「雨があがつてるね」
「よくも、こんなに、雨の降るところだと、私、呆れてしまつてるの‥‥」
「うん‥‥」
「全く、しつゝこい雨だわ」
「君の、思ひ出好き、みたいぢやないかい?」
「さうね‥‥。さうかも知れないわ」
「二人とも、皮を剥がれた兎かね?」
ゆき子は微笑した。
注射針をかたづけて、富岡はしめつた煙草に火をつけて、ぷうつとまづさうに吸ひつけながら、床の間の空の徳利に手をのばしてゐる。
おせいの幻影が、眼のさきにちらつく。富岡は、一本々々、空の徳利に口をつけた。
「そんなに召し上りたいの?」
「うん、飮みたいね」
「私も、病氣でなかつたら、飮みたいわ。ねえ、どうして、二人で、こゝへ來る氣になつたンでせう?」
「勤めを持つたンだから仕方がないさ」
「どうして、こんな遠い處へ勤め口を持たなくちやならなかつたの?」
「そりやア、東京ぢやア食べられないからね。君こそ、少しよくなつたら、東京へ戻れよ‥‥。えゝ?」
「戻つて、何をするの?」
「それは、判らない。君が、何をするンだか‥‥」
ゆき子は眼をつぶつた。痛い傷口に觸れたやうな氣がし、自分の病氣が、何か特殊なものゝやうな氣もして來る。比嘉が、さかんにレントゲンを撮りませうと云つてゐたが、ゆき子は撮らせなかつた。ポータブルの機械があるからと云つてくれたが、ゆき子は、自分の胸のなかを診られるのは厭だつた。
「何時頃ですか?」
「もう、夜明けだ。五時だよ。こゝは、一年ぢゆう、雨の降る島かね?」
「どうなンでせうね」
「山の中へ這入つて働くより方法もないところだね。官舍も、昨日見て來たが、君一人でゐられるかどうかだ‥‥。僕が、山へ這入つてしまへば、一週間位は、留守になつちまふンだぜ‥‥」
「私も、山へ行けないの?」
「いかに何でも、さうはゆかないだらう」
「さうでせうね。でも雨さへ降らなければ、私、とてもいいところだらうと思ふンだけど、かう毎日、雨降りつてわけでもないでせうね‥‥。こんな時、加野さんがゐてくれるといゝわ‥‥」
「冥土へ呼びに行くか?」
「呼びに行つて、歸らなかつたら、あなた、吻つとなさるでせう?」
「吻つとするさ。女は何處にでもゐるからね」
「さうね。女つて、そんなものなのね。どんな立派な女だつて、男から見れば、そんなものなのだわ‥‥。根本的に違つてるンだもの。女は何處にでもゐるなんて、口惜しいわ」
「口惜しかつたら、早く元氣になる事だな。元氣になつて、男と鬪爭するんだ。女の最大の武器でやるんだ‥‥」
「憎らしい事を云ふひとだわねえ。昔から、毒舌家だつたけど、婦人代議士みたいな人達が聞いたら、怒りに來るわよ」
「婦人代議士‥‥。僕は、婦人代議士なんか、女とも何とも思つちやゐないよ。そんなものがあるのさへ忘れてゐた」
アーメン(確かに)である。ゆき子は、腹を立てながら胸の手をのばして、富岡の手を探し求めた。
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