草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
一
三浦の 大崩壊 ( おおくずれ ) を、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を 屏風 ( びょうぶ ) で 劃 ( くぎ ) った、桜山の 裾 ( すそ ) が、見も 馴 ( な ) れぬ 獣 ( けもの ) のごとく、 洋 ( わだつみ ) へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、 逗子 ( ずし ) から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の 時分 ( ころ ) 、 人死 ( ひとじに ) のあるのは、この辺ではここが多い。
一夏 激 ( はげし ) い暑さに、雲の峰も焼いた 霰 ( あられ ) のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって 覆 ( こぼ ) れそうな 日盛 ( ひざかり ) に、これから 湧 ( わ ) いて出て人間になろうと思われる 裸体 ( はだか ) の男女が、 入交 ( いりまじ ) りに波に浮んでいると、 赫 ( かっ ) とただ金銀銅鉄、 真白 ( まっしろ ) に溶けた 霄 ( おおぞら ) の、どこに 亀裂 ( ひび ) が入ったか、 破鐘 ( われがね ) のようなる声して、
「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。
この 呪詛 ( のろい ) のために、浮べる 輩 ( やから ) はぶくりと沈んで、 四辺 ( あたり ) は 白泡 ( しらあわ ) となったと聞く。
また十七ばかり少年の、 肋膜炎 ( ろくまくえん ) を病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、 可恐 ( おそろし ) く 身体 ( からだ ) を気にして、自分で病理学まで研究して、0
[#「,」は天地左右中央]などと調合する、 朝夕 ( ちょうせき ) 検温気で度を 料 ( はか ) る、三度の食事も 度量衡 ( はかり ) で食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い 痩脛 ( やせずね ) の 高端折 ( たかはしょり ) 、 跣足 ( はだし ) でちょびちょび横 歩行 ( ある ) きで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、「ああ、退屈だ。」
と 呟 ( つぶや ) くと、頭上の 崖 ( がけ ) の 胴中 ( どうなか ) から、異声を放って、
「親孝行でもしろ――」と 喚 ( わめ ) いた。
ために、その少年は 太 ( いた ) く煩い附いたと云う。
そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに 大崩壊 ( おおくずれ ) へ 上 ( のぼ ) るのを、土地の者が見着けると、百姓は 鍬 ( くわ ) を 杖支 ( つえつ ) き、船頭は 舳 ( みよし ) に立って、下りろ、危い、と声を懸ける。
実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は 薬研 ( やげん ) を 俯向 ( うつむ ) けに伏せたようで、 跨 ( また ) ぐと 鐙 ( あぶみ ) の無いばかり。馬の背に立つ 巌 ( いわお ) 、狭く鋭く、 踵 ( くびす ) から、 爪先 ( つまさき ) から、ずかり 中窪 ( なかくぼ ) に削った 断崖 ( がけ ) の、見下ろす 麓 ( ふもと ) の白浪に、 揺落 ( ゆりおと ) さるる 思 ( おもい ) がある。
さて一方は長者園の 渚 ( なぎさ ) へは、浦の波が、 静 ( しずか ) に 展 ( ひら ) いて、 忙 ( せわ ) しくしかも 長閑 ( のどか ) に、 鶏 ( とり ) の 羽 ( は ) たたく音がするのに、ただ 切立 ( きった ) ての 巌 ( いわ ) 一枚、一方は太平洋の 大濤 ( おおなみ ) が、牛の 吼 ( ほ ) ゆるがごとき声して、 緩 ( ゆるや ) かにしかも 凄 ( すさま ) じく、うう、おお、と 呻 ( うな ) って、三崎街道の外浜に大 畝 ( うね ) りを打つのである。
右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、 杜若 ( かきつばた ) 咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の 鴎 ( かもめ ) が舞い、沖を 黒煙 ( くろけむり ) の竜が 奔 ( はし ) る。
これだけでも 眩 ( めくるめ ) くばかりなるに、 蹈 ( ふ ) む 足許 ( あしもと ) は、岩のその 剣 ( つるぎ ) の刃を渡るよう。 取縋 ( とりすが ) る松の枝の、海を分けて、 種々 ( いろいろ ) の波の調べの 懸 ( かか ) るのも、人が縋れば根が揺れて、 攀上 ( よじのぼ ) った 喘 ( あえ ) ぎも 留 ( や ) まぬに、汗を 冷 ( つめと ) うする風が絶えぬ。
さればとて、これがためにその景勝を 傷 ( きずつ ) けてはならぬ。 大崩壊 ( おおくずれ ) の 巌 ( いわお ) の 膚 ( はだ ) は、春は紫に、夏は緑、秋 紅 ( くれない ) に、冬は黄に、藤を編み、 蔦 ( つた ) を 絡 ( まと ) い、 鼓子花 ( ひるがお ) も咲き、 竜胆 ( りんどう ) も咲き、尾花が 靡 ( なび ) けば月も 射 ( さ ) す。いで、 紺青 ( こんじょう ) の波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠が 鑿 ( のみ ) を施した、青銅の 獅子 ( しし ) の 俤 ( おもかげ ) あり。その美しき花の衣は、彼が威霊を 称 ( たた ) えたる 牡丹花 ( ぼたんか ) の 飾 ( かざり ) に似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に 黄金 ( こがね ) 、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、 鋭 ( と ) き大自在の爪かと見ゆる。
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