草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
二十二
「不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ
承りまするだけで、それがしかし何より 私 ( わたくし ) には結構でございます。」
と僧は 慇懃 ( いんぎん ) である。
明は少し 俯向 ( うつむ ) いた。 瘠 ( や ) せた 顋 ( あぎと ) に襟狭く、
「そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、 貴僧 ( あなた ) の前では申すのもお恥かしい。」
「決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に 憑物 ( つきもの ) の――ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、 少 ( わか ) い仏たちの 回向 ( えこう ) も頼む。ついては 貴下 ( あなた ) のお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、 熟 ( じっ ) と辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。
と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで 蒼白 ( あおじろ ) く見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お 身体 ( からだ ) も弱そうゆえに、 老寄 ( としより ) 夫婦で一層のこと気にかかる。
昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は 気怯 ( きおく ) れがして、それさえ 不沙汰 ( ぶさた ) がちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもその 託 ( ことづけ ) でございました。が何か、最初の内、 貴方 ( あなた ) が 御逗留 ( ごとうりゅう ) というのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話 対手 ( あいて ) 、 夜伽 ( よとぎ ) はまだ 穏 ( おだやか ) な内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、 係羂 ( かけわな ) に鼠の 天麩羅 ( てんぷら ) を仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで?――
婆さんが話しました。」
「私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分 賑 ( にぎやか ) でした。
まあ、 入 ( いり ) かわり 立 ( たち ) かわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。」
「と申す事でございますな。ええ、時にその入り 交 ( かわ ) り立ち交りにつけて、何か怪しい、」
と言いかけて 偶 ( ふ ) と見返った、次の 室 ( ま ) と隔ての 襖 ( ふすま ) は、二枚だけ山のように、 行燈 ( あんどう ) の左右に峰を分けて、 隣国 ( となりぐに ) までは灯が届かぬ。
心も置かれ、後髪も引かれた 状 ( さま ) に、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、
「その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、 怯 ( おびや ) かす。――何かその……畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。」
熟 ( じっ ) と 視 ( み ) て聞くと、また 俯向 ( うつむ ) いて、
「ですから、お話しも 極 ( きま ) りが悪い、取留めのない事だと申すんです。」
「ははあ、」
と胸を引いて、僧は 寛 ( くつろ ) いだ 状 ( さま ) に打笑い、
「あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが 可 ( い ) い加減な百物語。その実、 嘘説 ( うそ ) なのでございますので?」
「いいえ、それは事実です。畳は 上 ( あが ) りますとも。 貴僧 ( あなた ) 、今にも動くかも分りません。」
「ええ!や、それは、」
と思わず、膝を 辷 ( すべ ) らした手で、はたはたと 圧 ( おさ ) えると、爪も立ちそうにない 上床 ( じょうどこ ) の固い事。
「これが、動くでございますか。」
「ですから、取留めのない事ではありませんか。」
と 静 ( しずか ) に云うと、黙って、ややあって 瞬 ( またたき ) して、
「さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。」
「騒がないで、 熟 ( じっ ) としていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に 倒 ( さかさ ) に立って、裏返しになるというんじゃないのですから、」
「いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。」
「そうですとも。そうなった日には、足の裏を 膠 ( にかわ ) で 附着 ( くッつ ) けておかねばなりません。
何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人が 肯 ( き ) かないで、畳のこの合せ目が、」
と手を 支 ( つ ) いて、ずっと 掌 ( てのひら ) を 辷 ( すべ ) らしながら、
「はじめに、長い三角だの、小さな四角に、 縁 ( ふち ) を開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、その 疾 ( はや ) い事は、稲妻のように見えます。
そうするともう、わっと言って、飛ぶやら 刎 ( は ) ねるやら、やあ!と 踏張 ( ふんば ) って両方の 握拳 ( にぎりこぶし ) で押えつける者もあれば、いきなり三宝 火箸 ( ひばし ) でも火吹竹でも宙で振廻す人もある――まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出して 遁 ( に ) げて 行 ( ゆ ) きます。」
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