草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
十五
「そして、御坊様は、これからどこまで 行 ( ゆ ) かっしゃりますよ。」
包を引寄せる旅僧に連れて、 姥 ( うば ) も腰を上げて尋ねると、
「鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山で 灯 ( あかり ) が 点 ( つ ) こう。
おお、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらと 灯 ( ひ ) が見える。」
「よう御存じでござりますの。」
「まだ俗の 中 ( うち ) に知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。
修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、」
と 打微笑 ( うちほほえ ) み、
「鎌倉まで 行 ( ゆ ) きましょうよ。」
「それはそれは、御不都合な、つい話に実が 入 ( い ) りまして、まあ、とんだ 御足 ( おみあし ) を留めましてござります。」
「いや、どういたして、 忝 ( かたじけな ) い。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。
何、嘘ではありません。
見なさる通り、 行脚 ( あんぎゃ ) とは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々 蜻蛉 ( とんぼ ) の 道連 ( みちづれ ) には墨染の 法衣 ( ころも ) の袖の、発心の涙が乾いて、おのずから 果敢 ( はか ) ない浮世の露も忘れる。
いつとなく、仏の 御名 ( みな ) を唱えるのにも遠ざかって、 前刻 ( さっき ) も、お前ね。
実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、 日向 ( ひなた ) の麦 畠 ( ばたけ ) へ 差懸 ( さしかか ) ると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす 友染 ( ゆうぜん ) の 襷懸 ( たすきが ) け、 手拭 ( てぬぐい ) を 冠 ( かぶ ) って畑に出ている。
歩行 ( ある ) きながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と 徒口 ( むだぐち ) 半分、 檜笠 ( ひのきがさ ) の下から 頤 ( おとがい ) を出して尋ねるとね。
はい、浪打際に 子産石 ( こうみいし ) と云うのがござんす。これこれでここの名所、と 土地 ( ところ ) 自慢も、優しく教えて、石段から 真直 ( まっす ) ぐに、 畑中 ( はたなか ) を切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
いかに石が名所でも、男ばかりで 児 ( こ ) が出来るか。何と、 姉 ( あね ) や、と麦にかくれる島田を 覗 ( のぞ ) いて、 天狗 ( てんぐ ) わらいに 冴 ( さ ) えて来ました、面目もない 不了簡 ( ふりょうけん ) 。
嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に 悚気 ( ぞっ ) としたよ。
黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目を 瞑 ( ねむ ) ったら、なお 歴然 ( ありあり ) 、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うても 可 ( よ ) い、私は夜通しでも構わんが。
あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちを 覗 ( のぞ ) いては、 素通 ( すどおり ) をしたのがあります。
近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履 穿 ( ば ) きで裾をからげた、杖を 突張 ( つッぱ ) った、 白髪 ( しらが ) の婆さんの、お前さんとは 知己 ( ちかづき ) と見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほく 去 ( い ) ってしまった。
私も 聞惚 ( ききと ) れていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」
と扇を膝に、両手で横に 支 ( つ ) きながら、丁寧に会釈する。
姥 ( うば ) はあらためて 右瞻左瞻 ( とみこうみ ) たが、
「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。 難有 ( ありがた ) や、」
と浅からず 渇仰 ( かつごう ) して、
「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って 回向 ( えこう ) をしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と 斎布施 ( ときふせ ) をお目当で……」
とずっきり云った。
「こりゃ 仰有 ( おっしゃ ) りそうな処、御自分の 越度 ( おちど ) をお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と 前途 ( さき ) をお急ぎなさります飾りの無いお前様。
道中、お 髪 ( ぐし ) の伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」
草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||