草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
七
「 仰向様 ( あおのけざま ) に、火のような息を吹いて、 身体 ( からだ ) から 染出 ( しみだ ) します、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。
奴 ( やっこ ) は、 打 ( ぶ ) っても、叩いても、 起 ( おき ) ることではござりませぬがの。
かかり 合 ( あい ) は 免 ( のが ) れぬ、と 小力 ( こぢから ) のある男が、力を貸して、船頭まじりに、この 徒 ( てあい ) とて 確 ( たしか ) ではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二 樽 ( たる ) は、 荷 ( にな ) って小売 店 ( みせ ) へ届けました。
嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、 死骸 ( しがい ) ではない、酔ったもの、 醒 ( さ ) めた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は 遁 ( にげ ) を打って、帆を掛けて、海の 靄 ( もや ) へと隠れました。
どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の 親許 ( おやもと ) へ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、 捏 ( てこ ) でも動かぬに 困 ( こう ) じ果てて、すっぱすっぱ 煙草 ( たばこ ) を吹かすやら、お前様、 嚔 ( くしゃみ ) をするやら、 向脛 ( むかはぎ ) へ 集 ( たか ) る蚊を 踵 ( かかと ) で 揉殺 ( もみころ ) すやら、泥に酔った 大鮫 ( おおざめ ) のような嘉吉を、浪打際に 押取巻 ( おっとりま ) いて、小田原 評定 ( ひょうじょう ) 。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を 曳 ( ひ ) きまして、藤沢から一日 路 ( みち ) 、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……」
茜色 ( あかねいろ ) の 顱巻 ( はちまき ) を、 白髪天窓 ( しらがあたま ) にちょきり結び。結び目の 押立 ( おった ) って、威勢の 可 ( い ) いのが、弁慶 蟹 ( がに ) の、濡色あかき 鋏 ( はさみ ) に似たのに、またその左の腕 片々 ( かたかた ) 、へし曲って脇腹へ、ぱツと 開 ( あ ) け、ぐいと握る、指と 掌 ( てのひら ) は動くけれども、 肱 ( ひじ ) は 附着 ( くッつ ) いてちっとも伸びず。 銅 ( あかがね ) で鋳たような。……その 仔細 ( しさい ) を尋ぬれば、心がらとは言いながら、 去 ( さんぬ ) る年、一 膳 ( ぜん ) 飯屋でぐでんになり、 冥途 ( めいど ) の宵を照らしますじゃ、と 碌 ( ろく ) でもない秀句を吐いて、 井桁 ( いげた ) の中に横 木瓜 ( もっこう ) 、田舎の 暗夜 ( やみ ) には通りものの 提灯 ( ちょうちん ) を借りたので、 蠣殻道 ( かきがらみち ) を照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、 地 ( つち ) が崩れそうなひょろひょろ 歩行 ( ある ) き。 好 ( い ) い心持に眠気がさすと、邪魔な 灯 ( あかり ) を 肱 ( ひじ ) にかけて、腕を 鍵形 ( かぎなり ) に両手を組み、ハテ怪しやな、 汝 ( おのれ ) 、 人魂 ( ひとだま ) か、 金精 ( かねだま ) か、正体を 顕 ( あらわ ) せろ! とトロンコの 据眼 ( すえまなこ ) で、提灯を下目に 睨 ( にら ) む、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような 鼾 ( いびき ) を立てつつ、大崩壊に 差懸 ( さしかか ) ると、海が変って、太平洋を 煽 ( あお ) る風に、提灯の 蝋 ( ろう ) が倒れて、めらめらと燃えついた。沖の 漁火 ( いさりび ) を袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ 疾 ( はえ ) え、と鬼と組んだ横倒れ、 転廻 ( ころがりまわ ) って 揉消 ( もみけ ) して、 生命 ( いのち ) に別条はなかった。が、その時の 大火傷 ( おおやけど ) 、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ 不具 ( かたわ ) もの―― 渾名 ( あだな ) を、てんぼう 蟹 ( がに ) の 宰八 ( さいはち ) と云う、秋谷在の名物 親仁 ( おやじ ) 。
「…… 私 ( わし ) が 爺 ( じじい ) 殿でござります。」
と 姥 ( うば ) は云って、 微笑 ( ほほえ ) んだ。
小次郎法師は、 寿 ( ことぶ ) くごとく、 一揖 ( いちゆう ) して、
「成程、 尉 ( じょう ) 殿だね。」と祝儀する。
「いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お 庇 ( かげ ) さまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、 進退 ( かけひき ) が 厭 ( いや ) じゃ、とのう、葉山を越して、日影から、 田越逗子 ( たごえずし ) の方へ、遠くまで、てんぼうの肩に 背負籠 ( しょいかご ) して、 栄螺 ( さざえ ) や、とこぶし、もろ 鯵 ( あじ ) の開き、うるめ 鰯 ( いわし ) の目刺など持ちましては、 飲代 ( のみしろ ) にいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の 鶴谷 ( つるや ) 喜十郎様、」
と丁寧に名のりを上げて、
「これが 私 ( わし ) ども、お 主 ( しゅ ) 筋に当りましての。そのお 邸 ( やしき ) の御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
一月に一度ぐらいは、 種々 ( いろいろ ) 入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは 洋燈 ( ランプ ) の心まで、 一車 ( ひとくるま ) ずつ調えさっしゃります。
横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、 界隈 ( かいわい ) は間に合わせの 俄 ( にわか ) 仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても 目量 ( めかた ) のある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、」
と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
しばらく往来もなかったのである。
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