草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
二十一
「はじめの夜は、ただその 手毬 ( てまり ) が 失 ( う ) せましただけで、別に変った 事件 ( こと ) も無かったでございますか。」
と、小次郎法師の 旅僧 ( たびそう ) は 法衣 ( ころも ) の袖を 掻合 ( かきあわ ) せる。
障子を開けて縁の 端近 ( はしぢか ) に差向いに坐ったのは、 少 ( わか ) い人、すなわち黒門の客である。
障子も 普通 ( なみ ) よりは幅が広く、見上げるような天井に、血の 足痕 ( あしあと ) もさて着いてはおらぬが、 雨垂 ( あまだれ ) が 伝 ( つたわ ) ったら 墨汁 ( インキ ) が降りそうな古びよう。 巨寺 ( おおでら ) の壁に見るような、 雨漏 ( あまもり ) の 痕 ( あと ) の 画像 ( えすがた ) は、 煤 ( すす ) 色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、 浸附 ( しみつ ) いて、どうやら 饅頭 ( まんじゅう ) の形した笠を 被 ( かぶ ) っているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は 鴨居 ( かもい ) の上になって、空から畳を 瞰下 ( みお ) ろすような、 惟 ( おも ) うに漏る雨の余り 侘 ( わび ) しさに、笠欲ししと念じた、壁の心が 露 ( あらわ ) れたものであろう――抜群にこの 魍魎 ( もうりょう ) が 偉大 ( おおき ) いから、それがこの広座敷の 主人 ( あるじ ) のようで、月影がぱらぱらと 鱗 ( うろこ ) のごとく 樹 ( こ ) の 間 ( ま ) を落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、 硝子 ( がらす ) 障子に 嵌込 ( はめこ ) んだ、 歌留多 ( かるた ) の絵かと疑わるる。
「ええ、」
と黒門の年若な 逗留 ( とうりゅう ) 客は、火のない 煙草 ( たばこ ) 盆の、 遥 ( はるか ) に上の方で、 燧灯 ( マッチ ) を 摺 ( す ) って、 静 ( しずか ) に 吸 ( す ) いつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほど 室 ( ま ) の内は薄暗い。――差置かれたのは 行燈 ( あんどう ) である。
「まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……」
「ああ、 手 ( てん ) ぼうの……でございますな。」
「そうです。あの 親仁 ( おやじ ) にも 謂 ( い ) わないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。」
この 古館 ( ふるやかた ) のまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。 黄昏 ( たそがれ ) にただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、 上 ( あが ) って来ます、 膳 ( ぜん ) が出る。床を取る、寝る、と段取の 極 ( きま ) りました 旅籠屋 ( はたごや ) でも、旅は 住心 ( すみごころ ) の落着かない、全く仮の宿です……のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で 畔道 ( あぜみち ) の一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた―― 八幡不知 ( やわたしらず ) 。
第一要害がまるで 解 ( わか ) りません。 真中 ( まんなか ) へ立ってあっちこっち 瞻 ( みまわ ) しただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。
大袈裟 ( おおげさ ) に言えば、それこそ、さあ、と云う時、 遁路 ( にげみち ) の無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、 貴僧 ( あなた ) 、黒門までは 可 ( い ) い天気だったものを、急に大粒な雨!と 吃驚 ( びっくり ) しますように、屋根へ 掛 ( かか ) りますのが、この 蔽 ( おっ ) かぶさった、 欅 ( けやき ) の葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、」
と肩を落して、仰ぎ 様 ( ざま ) に、 廂 ( ひさし ) はずれの空を 覗 ( のぞ ) いた。
「やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。」
「しますると……」
旅僧は先祖が富士を見た 状 ( さま ) に、首あげて天井の高きを仰ぎ、
「この、時々ぱらぱらと来ますのは、 木 ( こ ) の葉でございますかな。」
「御覧なさい、星が降りそうですから、」
「成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ 応 ( こた ) えますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。」
「お冷えなさるようなら、 貴僧 ( あなた ) 、閉めましょう。」
「いいえ、蚊を 疵 ( きず ) にして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお 宜 ( よろ ) しい。」
と顔を見て、
「しかし、いかにもその時はお 寂 ( さみ ) しかったでございましょう。」
「実際、 貴僧 ( あなた ) 、 遥々 ( はるばる ) と国を隔てた事を思い染みました。この 果 ( はて ) に故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。」
「失礼ながら、 御生国 ( ごしょうごく ) は、」
「 豊前 ( ぶぜん ) の 小倉 ( こくら ) で、…… 葉越 ( はごし ) と言います。」
葉越は姓で、 渠 ( かれ ) が名は明である。
「ああ、御遠方じゃ、」
と 更 ( あらた ) めて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海を 視 ( なが ) める思いがした。旅の 窶 ( やつれ ) が何となく、袖を圧して、その 単衣 ( ひとえ ) の 縞柄 ( しまがら ) にも 顕 ( あらわ ) れていたのであった。
「そして 貴僧 ( あなた ) は、」
「これは 申後 ( もうしおく ) れました、 私 ( わたくし ) は信州松本の在、至って山家ものでございます。」
「それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。」
と、明は優しく、人 懐 ( な ) つこい。
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