草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十五
美人 ( たおやめ ) は 更 ( あらた ) めて、
「 貴僧 ( あなた ) 、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
日頃のお 苦 ( くるし ) みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の 薫 ( かおり ) がはっとして、肩に 萌黄 ( もえぎ ) の姿つめたく、 薄紅 ( うすくれない ) が布目を透いて、
「 明 ( あき ) ちゃん……」
と崩るるごとく、 片頬 ( かたほ ) を横に 接 ( つ ) けんとしたが、 屹 ( きっ ) と 立退 ( たちの ) いて、袖を合せた。
僧を見る目に涙が宿って、
「それではお 暇 ( いとま ) いたしましょう。 稚 ( おさな ) い事を、 貴僧 ( あなた ) にはお恥かしいが、明さんに一式のお 愛相 ( あいそ ) に、手毬をついて見せましょう、あの……」
と掛けた声の下。 雪洞 ( ぼんぼり ) の 真中 ( まんなか ) を、蝶々のように 衝 ( つ ) と抜けて、 切禿 ( きりかむろ ) で 兎 ( うさぎ ) の顔した、 女 ( め ) の 童 ( わらわ ) が、袖に 載 ( の ) せて捧げて来た。手毬を取って、 美女 ( たおやめ ) は、 掌 ( たなそこ ) の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる 莟 ( つぼみ ) と 掻撫 ( かいな ) でながら、 袂 ( たもと ) のさきを 白歯 ( しらは ) で含むと、ふりが、はらりと 襷 ( たすき ) にかかる。
※ ( ろう ) たけた 笑 ( えみ ) 、 恍惚 ( うっとり ) して、
「まあ、私ばかり 極 ( きまり ) が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」
蚊帳をはらはら取巻いたは、 桔梗 ( ききょう ) 刈萱 ( かるかや ) 、 美 ( うつく ) しや、 萩 ( はぎ ) 女郎花 ( おみなえし ) 、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
八幡 ( はちまん ) 長者のおと 女 ( むすめ ) 、
よくも立ったり、 企 ( たく ) んだり、
手には二本の珠を持ち、
足には 黄金 ( こがね ) のくつを 穿 ( は ) き……)
壁も 襖 ( ふすま ) も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた 木 ( こ ) の葉も、ぱらぱらと、 行燈 ( あんどう ) を 繞 ( めぐ ) って操る 紅 ( くれない ) 。中を 縢 ( かが ) って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が 自然 ( おのずから ) はたはたと 躍上 ( おどりあが ) った。
と 衝 ( つ ) と投げ上げて、トンと落して、高くついた。
待てよ。 古郷 ( ふるさと ) の 涅槃会 ( ねはんえ ) には、 膚 ( はだ ) に抱き、 袂 ( たもと ) に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て 突競 ( つきくら ) を戯れる 習慣 ( ならい ) がある。 少 ( わか ) い男は 憚 ( はばか ) って、 鐘撞 ( かねつき ) 堂から 覗 ( のぞ ) きつつその 遊戯 ( あそび ) に 見愡 ( みと ) れたが…… 巨刹 ( おおでら ) の 黄昏 ( たそがれ ) に、大勢の娘の姿が、 遥 ( はるか ) に壁に 掛 ( かか ) った、極彩色の 涅槃 ( ねはん ) の絵と、 同一状 ( おなじさま ) に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の 背後 ( うしろ ) 、 位牌堂 ( いはいどう ) の暗い畳廊下から、一人水際立った 妖艶 ( うつくし ) いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた 几帳窓 ( きちょうまど ) の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか 人数 ( ひとかず ) に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――
と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この 状 ( さま ) を、今 視 ( なが ) めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……
身動 ( みじろ ) ぎに、この 美女 ( たおやめ ) の 鬢 ( びん ) の 後 ( おく ) れ毛、さらさらと頬に 掛 ( かか ) ると、その影やらん薄曇りに、 目 ( ま ) ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
( 笄 ( こうがい ) 落し 小枕 ( こまくら ) 落し……)
と 綾 ( あや ) に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
みだれし 風采 ( とりなり ) 恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、 女 ( め ) の 童 ( わらわ ) の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと 立 ( たち ) かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、 褄 ( つま ) のこぼれた立姿。
屋の棟 熟 ( じっ ) と打仰いで、
「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が 揺 ( ゆら ) ぐ。おお、 最惜 ( いとお ) しの 御子 ( おこ ) に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が 挙動 ( ふるまい ) に、心騒ぎのせらるるか。 客僧方 ( あなたがた ) には見えまいが、 地 ( じ ) の底に 棲 ( す ) むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、 言 ( ことば ) といっては交わされない。
美しき夢見るお方、」
あれ、かしこに母君 在 ( まし ) ますぞや。 愛惜 ( あいじゃく ) の一念のみは、魔界の 塵 ( ちり ) にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる 雫 ( しずく ) は、母君の 御情 ( おんなさけ ) の露を取次ぎ参らする、 乳 ( ち ) の 滴 ( したたり ) ぞ、と 袂 ( たもと ) を傾け、差寄せて、 差俯 ( さしうつむ ) き、はらはらと落涙して、
「まあ、 稚児 ( おさなご ) の昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」
さらば、さらば、 御僧 ( おんそう ) 。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
ト玄関から、 庭前 ( にわさき ) かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
目を 擦 ( こす ) り、目を
※ ( みは ) り、目を 拭 ( ぬぐ ) いいる客僧に立別れて、やがて 静々 ( しずしず ) ―― 狗 ( いぬ ) の顔した腰元が、ばたばたと 前 ( さき ) へ立ち、炎燃ゆ、と 緋 ( ひ ) のちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に 鏤 ( ちりば ) む星の 首途 ( かどいで ) 。十四日の月の有明に、片頬を見せた 風采 ( とりなり ) は、薄雲の下に朝顔の 莟 ( つぼみ ) の解けた風情して、うしろ髪、 打揺 ( うちゆら ) ぎ、一たび蚊帳を振返る。「やあ、」
と、蚊帳を払って、明が 飜然 ( ひらり ) と飛んで 縋 ( すが ) った。――
袂を支える旅僧と、 押揉 ( おしも ) む二人の目の 前 ( さき ) へ、この時ずか、と 顕 ( あら ) われた偉人の姿、 靄 ( もや ) の中なる林のごとく、黄なる 帷子 ( かたびら ) 、幕を 蔽 ( おお ) うて、 廂 ( ひさし ) へかけて 仁王立 ( におうだち ) 、大音に、
「通るぞう。」
と一喝した。
「はっ、」
と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯―― 汲 ( く ) んで来て、――縁の 端近 ( はしぢか ) に置いた 手桶 ( ておけ ) が、ひょい、と 倒斛斗 ( さかとんぼ ) に 引 ( ひっ ) くりかえると、ざぶりと水を 溢 ( こぼ ) しながら、アノ手でつかつかと 歩行 ( ある ) き出した。
その後を水が走って、早や 東雲 ( しののめ ) の雲白く、煙のような 潦 ( にわたずみ ) 、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、 舳 ( へさき ) を 颯 ( さっ ) と乗上げて、 白粉 ( おしろい ) の花越しに、すらすらと 漕 ( こ ) いで通る。大魔の袖や帆となりけん、 美女 ( たおやめ ) は船の 几帳 ( きちょう ) にかくれて、
細道じゃ、
天神様の細道じゃ、
細道じゃ、
少し通して下さんせ……)
最切 ( いとせ ) めて 懐 ( なつか ) しく聞ゆ、とすれば、 樹立 ( こだち ) の 茂 ( しげり ) に 哄 ( どっ ) と風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
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