University of Virginia Library

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三十四

 その夜に限って何事もなく、静かに。……寝ようという時、初夜過ぎた。

 宰八が 手燭 てしょく に送られて、広縁を折曲って、 はる かに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、 故郷 ふるさと には蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つ おもい がある。

「ここかい。」

「それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立って るのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お 前様 めえさま 帰りがけに取違えてはなんねえだよ。

 二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。」

「もう分りましたよ。」

かあねえ、 わし 、ここに待っとるで、 あかり をたよりに出て来さっせえ。

 私も、この障子の いか いこと続いたのに、めらめら破れのある 工合 ぐあい が、ハイ一ツ一ツ 白髑髏 しゃれかうべ のようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、 いれ かわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」

 僧は戸を開けながら、と、声をかけて、

「御免下さい。」

 と、ぴたりと閉めた。

「あ、あ、気味の悪い。誰に 挨拶 あいさつ さっせるだ。 南無阿弥陀仏 なむあみだぶ 、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを

[_]
[15]考えだぞ
。そこさ一面の障子の破れ のぞ いたら何が見えべい―― 南無阿弥陀仏 なんまいだ 、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、 蝋燭 ろうそく がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、 立処 たちどころ に六道の辻に迷うだて。 南無阿弥陀仏 なんまいだ 、御坊様、まだかね。」

「ちょいと、」

「ひゃあ、」

 僧は半ば開いて、中に鼠の 法衣 ころも で立ちつつ、

「ちょいと あかり を見せておくれ。」

「ええ、お前様、 さき へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば い。板戸が 音声 おんじょう を発したか、と 吃驚 びっくり しただ、はあ、何だね。」

「入口の、この出窓の下に、 手水 ちょうず 鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」

「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」

 と手燭ばかりを、ずいと出して、

「鉢前にゃ、 が明けたら見さっせえまし、大した 唐銅 からかね の手水鉢の、この邸さ いて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……」

 ええ、そよら、そよらと風だ。

 そ、その鉢にゃ水があれば いがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の のこり けて進ぜる。」

「あります、あります。」

 ざっと音をさして、

「冷い美しい水が、 満々 なみなみ とありますよ。」

「嘘を くもんでェねえ。なに うつくし い水があんべい。井戸の水は 真蒼 まっさお で、小川の水は白濁りだ。」

「じゃあ あかり で見るせいだろうか、」

「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」

「いいえ、 縁切 ふちきり こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。 真白 まっしろ 手拭 てぬぐい が、」

 と言いかけてしばらく黙った。

今年より 卯月 うづき 八日は吉日よ

     尾長 おなが 蛆虫 うじむし 成敗ぞする

「ここに さかさま にはってあるのは、これは 誰方 どなた がお書きなすった、」

「…… 南無阿弥陀仏 なまいだ 、南無阿弥陀仏……」

「ああ、 いおてだ。」

 と大和尚のように落着いて、 おおき く言ったが、やがてちと あわただ しげに小さな坊さまになって急いで出た。

「ええ、 はや く出さっせえ、 わし もう 押堪 おっこら えて、座敷から庭へ出て用たすべい。」

「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」

 と掛手拭を めた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の たもと から出している。

南無阿弥陀仏 なんまいだぶ 、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて っただとよ、 きそこだ、今ソンな事あどうでも え。頭から、 慄然 ぞっ とするだに、」

「そうかい、ああ私も今、手を こうとすると、真新しい 切立 きりたて の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」

「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その 跫音 あしおと を忍びたそうに、腰を浮かせて、 同一 おなじ 処を 蹌踉蹌踉 うろうろ する。