草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十一
「故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、 衣 ( きもの ) を清め、身を清め……」
唾 ( つば ) をのんで聞いた客僧が、
「成程、」
と腕組みして、
「精進潔斎。」
「そんな大した、」
と言消したが、また 打頷 ( うちうなず ) き
「どうせ娘の子のする事です。そうまでも 行 ( ゆ ) きますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその 洗髪 ( あらいがみ ) を 櫛巻 ( くしま ) きに結んで、 笄 ( こうがい ) なしに、 紅 ( べに ) ばかり薄くつけるのだそうです。
それから、十畳敷を 閉込 ( しめこ ) んで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ 婦 ( おんな ) の魂を据える、鏡です。
丑童子 ( うしどうじ ) 、 斑 ( まだら ) の 御神 ( おんかみ ) 、と、一心に念じて、 傍目 ( わきめ ) も 触 ( ふ ) らないで、 瞻 ( みつ ) めていると、その丑の年丑の月丑の日の…… 丑時 ( うしどき ) になると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。
娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その 丑待 ( うしまち ) を 独 ( ひとり ) でして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。……それっきりになっているんですもの。
手のつけようがありますまい。
いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓を 揺 ( ゆす ) ぶって、 記 ( しるし ) の松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。
その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、 麓 ( ふもと ) に玉散る石を 噛 ( か ) んで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、 戦 ( おのの ) くばかりで声が出ない。
うわの空で居たせいか、一日、山 路 ( みち ) で 怪我 ( けが ) をして、足を 挫 ( くじ ) いて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、 籠 ( かご ) を出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいと 杖 ( つえ ) で飛んで、いや 不恰好 ( ぶかっこう ) な蛙です――両側は家続きで、ちょうど 大崩壊 ( おおくずれ ) の、あの街道を見るように、なぞえに 前途 ( ゆくて ) へ高くなる――突当りが 撞木形 ( しゅもくがた ) になって、そこがまた 通街 ( とおり ) なんです。私が 貴僧 ( あなた ) 、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲りそうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト 立停 ( たちどま ) った美人があります。
扮装 ( みなり ) なぞは気がつかず、 洋傘 ( かさ ) は持っていたようでしたっけ、それを 翳 ( さ ) していたか、畳んだのを 支 ( つ ) いていたか、 判然 ( はっきり ) しないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。
トむこうでも 莞爾 ( にっこり ) しました……
そこへ笠を深くかぶった、 草鞋穿 ( わらじば ) きの、 猟人体 ( かりゅうどてい ) の 大漢 ( おおおとこ ) が、 鉄砲 ( てっぽう ) の 銃先 ( つつさき ) へ 浅葱 ( あさぎ ) の小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりと 曳 ( ひ ) いたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。
山を上に見て、 正的 ( まとも ) に町と町が 附 ( くっ ) ついた 三辻 ( みつつじ ) の、その 附根 ( つけね ) の処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その 葦簀 ( よしず ) の 張出 ( はりだし ) まで、わずか二間ばかりの 間 ( あい ) を通ったんですから、のさりと 行 ( ゆ ) くのも、ほんのしばらく。
熊の 背 ( せなか ) が、 彳 ( たたず ) んだ 婦人 ( おんな ) の 乳 ( ち ) のあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって 歩行 ( ある ) き出しました。あとへぞろぞろ大勢 小児 ( こども ) が……国では珍らしい 獣 ( けもの ) だからでしょう。
右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、 急足 ( いそぎあし ) に出よう、とすると、 馴 ( な ) れない 跛 ( びっこ ) ですから、腕へ台についた杖を忘れて、 躓 ( つまず ) いて、のめったので、 生爪 ( なまづめ ) をはがしたのです。
しばらく立てませんでした。
かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。
その後、旅行をして諸国を 歩行 ( ある ) くのに、越前の 木 ( こ ) の芽峠の 麓 ( ふもと ) で見かけた、炭を 背負 ( しょ ) った女だの、 碓氷 ( うすい ) を越す時汽車の窓からちらりと見ました、 隧道 ( トンネル ) を出て、 衝 ( つ ) と隧道を入る間の茶店に、うしろ向きの 女 ( むすめ ) だの、 都 ( みやこ ) では矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが……その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。
内へ帰って、
熊に取られた。
町の角で、町の角で――
跛ひきひき追えど及ばぬ。)
もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、 真日中 ( まびなか ) にそんなものを 視 ( み ) て、そんなことを云う 貴下 ( あなた ) は、 身体 ( からだ ) が弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出 禁制 ( きんぜい ) 。
以前は、その形で、正真正銘の熊の 胆 ( い ) 、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……」
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