草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
十七
訓導は苦笑いして、
「 可 ( い ) い加減な事を云う、 狂気 ( きちがい ) の嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに 知己 ( ちかづき ) のように話をするが、 水潜 ( みずくぐ ) りをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」
「お前様もね、 当前 ( あたりまえ ) だあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、 活 ( い ) きた猫なら秋谷中 私 ( わし ) ら 知己 ( ちかづき ) だ。何も 厭 ( いや ) な事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか 膚 ( はだ ) よ。げっそり骨の出た 死骸 ( しがい ) でねえかね。」
訓導は 打棄 ( うっちゃ ) るように、
「何だい、死骸か。」
「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。 金壺眼 ( かなつぼまなこ ) を 塞 ( ふさ ) がねえ。その人が 毬 ( まり ) を取ると、三毛の 斑 ( ぶち ) が、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の 汚 ( きたね ) え泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ 摺々 ( すれすれ ) での――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの 衣 ( きもの ) を絞るとって、帽子を脱いで 仰向 ( あおむ ) けにして、その中さ、入れさしった、 傍 ( そば ) で見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五 色 ( しき ) の――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」
「なあよ、宰八、」
「 何 ( あん ) だえ。」
仁右衛門は沈んだ声で、
「その手毬はどうしたよ。」
「今でもその学生が持ってるかね。」
背後 ( うしろ ) から、訓導がまた聞き挟む。
「 忽然 ( こつねん ) として消え 失 ( う ) せただ。夢に拾った 金子 ( かね ) のようだね。へ、へ、へ、」
とおかしな笑い方。
「ふん、」
と苦虫は苦ったなりで、てくてくと 歩行 ( ある ) き出す。
「嘘を 吐 ( つ ) け、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん 球 ( だま ) のように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」
「違えます、違えますとも!」
仁右衛門の後を打ちながら、
「その人が、
( 爺様 ( じいさん ) 、この里では、今時分手毬をつくか。)
( 何 ( あん ) でね?)
( 小児 ( こども ) たちが、優しい声、 懐 ( なつか ) しい節で唄うている。
秋谷邸の細道じゃ……)
一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
とんでもねえ、あれはお前様、
芋※ ( ずいき ) の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を 饒舌 ( しゃべ ) って、恥 掻 ( か ) くは 知慧 ( ちえ ) でねえと、( 何 ( あに ) お 前様 ( めえさま ) 、学校で体操するだ。おたま 杓子 ( じゃくし ) で球をすくって、ひるてんの 飛 ( とび ) っこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、 私 ( わし ) 一ツ威張ったよ。」
「何だ、 見 ( みっ ) ともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば 可 ( い ) い。」
「かね…… 私 ( わし ) また西洋の 雀躍 ( すずめおどり ) か、と思ったけ、まあ、 可 ( え ) え。」
「ちっとも 可 ( よ ) かあない、」
と訓導は 唾 ( つば ) をする。
「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
のっけから見当はつかねえ、けんど、 主 ( ぬし ) が 袂 ( たもと ) から滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」
と 黄母衣 ( きほろ ) を一つ 揺上 ( ゆすりあ ) げて、
「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、 可 ( い ) い 塩梅 ( あんばい ) よ、 引込 ( ひっこ ) んだのは 手棒 ( てんぼう ) の方、」
へへ、とまた独りで 可笑 ( おかし ) がり、
「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森に 掛 ( かか ) ったお月様の 真中 ( まんなか ) へ、 高 ( たっか ) くこう透かして見っけ。
しゃぼん 球 ( だま ) ではねえよ。 真円 ( まんまる ) な手毬の、影も、草に映ったでね。」
「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」
と 勢込 ( いきおいこ ) む、つき反らした 杖 ( ステッキ ) の 尖 ( さき ) が、ストンと蟹の穴へ 狭 ( はさま ) ったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
「まあ、聞かっせえ。
玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾ら 私 ( わし ) が 捻 ( ひね ) くっても、どこのものだか当りは着かねえ。
(霞のような小川の波に、 常夏 ( とこなつ ) の影がさして、遠くに……(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を 歩行 ( ある ) いたが、またこんな嬉しい里は見ない、)
と、ずぶ 濡 ( ぬれ ) の 衣 ( きもの ) を垂れる 雫 ( しずく ) さえ、 身体 ( からだ ) から玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」
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