草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十三
「おお、自分の顔を隠したさ。 貴僧 ( あなた ) を 威 ( おど ) す心ではない、 戸外 ( そと ) へ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。」
と、横へ取ったは 白鬼 ( はっき ) の面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その 顔 ( かんばせ ) を 差俯向 ( さしうつむ ) け、しとやかに手を 支 ( つ ) いた。
「は、は、はじめまして、」
と、しどろになって会釈すると、 面 ( おもて ) を上げた 寂 ( さみ ) しい頬に、唇 紅 ( あこ ) う 莞爾 ( にっこり ) して、
「 前刻 ( さっき ) 、 憚 ( はばかり ) へいらっしゃいます、廊下でお目に 懸 ( かか ) りましたよ。」
客僧も、今はなかなかに胴 据 ( すわ ) りぬ。
「 貴女 ( あなた ) はどなたでございます。」
と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
美女 ( たおやめ ) は 褄 ( つま ) を深う居直って、蚊帳を 透 ( すか ) して打傾く。
萌黄 ( もえぎ ) が迫って、その 衣 ( きぬ ) の色を薄く包んだ。
「この方の、 母 ( おっか ) さんのお 知己 ( ちかづき ) 、明さんとも、お友達……」
と口を結んだが 愁 ( うれい ) を帯びた。
此方 ( こなた ) は、じりじりと膝を向けて、
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、 貴僧 ( あなた ) にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」
とまた蚊帳越に 打視 ( うちなが ) め、
「お 最愛 ( いと ) しい、 沢山 ( たんと ) お 窶 ( やつ ) れ遊ばした。罪も 報 ( むくい ) もない方が、こんなに 艱難辛苦 ( かんなんしんく ) して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、 母 ( おっか ) さんの恋しさゆえ。
その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を 懐 ( なつか ) しがって、迷って恋におなりなすった。
その唄は 稚 ( おさな ) い時、この方の母さんから、口移しに 教 ( おそ ) わって、私は今も、覚えている。
こうまで、お 憧 ( こが ) れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ 申 ( もおし ) とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に 搦 ( から ) んで手に 縋 ( すが ) り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
どうして 貴僧 ( あなた ) 、 摺抜 ( すりぬ ) けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、 抱緊 ( だきし ) めます。
と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ 掟 ( おきて ) 。
私たちには自由自在――どの道浮世に背いた 身体 ( からだ ) が、それでは 外 ( ほか ) に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、 棄身 ( すてみ ) の私、ただ 最惜 ( いとおし ) さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに 随 ( まか ) せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は 厭 ( いと ) いはしませぬ。
厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと 同一 ( おなじ ) ような身の上になりますもの……
それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」
とさも 懸想 ( けそう ) したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
「あれあれ御覧なさいまし。こう言う 中 ( うち ) にも、明さんの 母 ( おっか ) さんが、花の 梢 ( こずえ ) と見紛うばかり、雲間を漏れる 高楼 ( たかどの ) の、 虹 ( にじ ) の 欄干 ( てすり ) を乗出して、叱りも 睨 ( にら ) みも遊ばさず、 児 ( こ ) の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の 血汐 ( ちしお ) は葉に染めても、秋のあの字も、明さんの名に 憚 ( はばか ) って声には出ませぬ。
一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、 最愛 ( いとお ) しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす 身体 ( からだ ) 。 他 ( ひと ) の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
実の 産 ( うみ ) の母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、 乳 ( ち ) を呑ませたく添寝もしたい――我が 児 ( こ ) 最惜 ( いとし ) む心さえ、天上では恋となる、その 忌憚 ( はばかり ) で、御遠慮遊ばす。
まして私は他人の事。
余計な御苦労かけるのが 御不便 ( ごふびん ) さ。決して私は明さんに、 在所 ( ありか ) を知らせず隠れていたのに、つい 膝許 ( ひざもと ) の 稚 ( おさな ) いものが、粗相で 手毬 ( てまり ) を流したのが悪縁となりました。
彼方 ( かなた ) も私も身を苦しめ、心を 傷 ( いた ) めておりましたが、お 生命 ( いのち ) の 危 ( あやう ) いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
あんまりお心が 可傷 ( いじら ) しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!
それは今、私がこの邸を 退 ( の ) きますと、もう隅々まで家中が 明 ( あかる ) くなる。明さんも思い直して、またここを出て 旅行 ( たび ) 立ちをなさいます。
早や今でも 沙汰 ( さた ) をする、この邸の不思議な事が、 界隈 ( かいわい ) へ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」
草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||