草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
五
「あれ、あの 大崩壊 ( おおくずれ ) の崖の 前途 ( むこう ) へ、皆が見えなくなりました。
ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。 唯今 ( ただいま ) の 狂人 ( きちがい ) が、酒に酔って 打倒 ( ぶったお ) れておりましたのは……はい、あれは嘉吉と申しまして、 私等 ( わしら ) 秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。
その飲んだくれます事、怠ける 工合 ( ぐあい ) 、まともな人間から見ますれば、 真 ( ほん ) に正気の 沙汰 ( さた ) ではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れた 奴 ( やつ ) ではござりません。いつでも村の 御祭礼 ( おまつり ) のように、遊ぶが 病気 ( やまい ) でござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる 酒問屋 ( さかどいや ) へ、奉公をしたでござります。
つい夏の 取着 ( とッつ ) きに、御主人のいいつけで、 清酒 ( すみざけ ) をの、お前様、 沢山 ( たんと ) でもござりませぬ。 三樽 ( みたる ) ばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが 上乗 ( うわの ) りで、この葉山の小売 店 ( みせ ) へ卸しに来たでござります。
葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、 乗 ( のっ ) けてくらっせえ、明いてる船じゃ、と 渡場 ( わたしば ) でも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、 磯 ( いそ ) の松の根方から、おおいおおい、と 板東声 ( ばんどうごえ ) で呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。
どれもどれも、 碌 ( ろく ) でなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口は 辷 ( すべ ) る、 凪 ( なぎ ) はよし、大話しをし 草臥 ( くたぶ ) れ、嘉吉めは胴の 間 ( ま ) の横木を枕に、 踏反返 ( ふんぞりかえ ) って、ぐうぐう 高鼾 ( たかいびき ) になったげにござります。
路に 灘 ( なだ ) はござりませぬが、樽の香が 芬々 ( ぷんぷん ) して、 鮹 ( たこ ) も浮きそうな凪の 好 ( よ ) さ。せめて船にでも酔いたい、と一人が 串戯 ( じょうだん ) に言い出しますと、何と一樽 賭 ( か ) けまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えば 可 ( い ) い、面白い、 遣 ( や ) るべいじゃ。
煙管 ( きせる ) の吸口ででも結構に樽へ穴を開ける 徒 ( てあい ) が、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱の 空 ( あき ) はなしか、といびつ 形 ( なり ) の 切溜 ( きりだめ ) を、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきで 嘗 ( な ) めながら、まわしのみの 煽 ( あお ) っきり。
天下晴れて、財布の 紐 ( ひも ) を外すやら、胴巻を解くやらして、 賭博 ( なぐさみ ) をはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。」
「 叱言 ( こごと ) を云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船の 頭 ( かしら ) だね。」
と真顔で法師の言うのを聞いて、 姥 ( うば ) は、いかさまな、その 年少 ( としわか ) で、出家でもしそうな人、とさも 憐 ( あわれ ) んだ趣で、
「まあ、お人の 好 ( い ) い。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、 極 ( きま ) り処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。」
「どうしたかね。」
「五人 徒 ( であい ) が 賽 ( さい ) の目に並んでおります、 真中 ( まんなか ) へ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。」
と 莞爾 ( にっこり ) して顔を見る。
いささかもその意を得ないで、
「なぜだろうかね。」
「この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと 海月 ( くらげ ) 泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。
その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ 御代 ( みよ ) なれや、と勿体ない、祝言の 小謡 ( こうたい ) を、 聞噛 ( ききかじ ) りに 謳 ( うた ) う下から、勝負!とそれ、 銭 ( おあし ) の 取遣 ( とりや ) り。板子の下が地獄なら、上も 修羅道 ( しゅらどう ) でござります。」
「船頭も同類かい、何の事じゃ、」
と法師は 新 ( あらた ) になみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。
「それはお前様、あの 徒 ( てあい ) と申しますものは、……まあ、海へ出て岸をば
※ ( みまわ ) して 御覧 ( ごろう ) じまし。 巌 ( いわ ) の窪みはどこもかしこも、 賭博 ( ばくち ) の 壺 ( つぼ ) に、 鰒 ( あわび ) の 蓋 ( ふた ) 。 蟹 ( かに ) の穴でない処は、皆 意銭 ( あないち ) のあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、 便船 ( びんせん ) しょう、便船しょう、と船を 渚 ( なぎさ ) へ引寄せては、 巌端 ( いわばな ) から、松の下から、 飜然々々 ( ひらりひらり ) と乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。」 草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||