草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十四
「 病 ( やまい ) の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、 余所 ( よそ ) の 婦人 ( おんな ) が、気軽な腰元の勧めるまま、 徒然 ( つれづれ ) の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、 皆 ( みんな ) 私が手伝いの人と一所に、 憂晴 ( うさは ) らしにしたいたずら 遊戯 ( あそび ) 、聞けば、怪我人も 沢山 ( たんと ) 出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、 皆 ( みんな ) の手当をよくするように。)……
と 白銀黄金 ( しろがねこがね ) を 沢山 ( たんと ) 授ける。
さあ、この事が世に聞えて、ぱっと 風説 ( うわさ ) の 立 ( たち ) ますため、病人は心が 引立 ( ひった ) ち、気の狂ったのも安心して治りますが、 免 ( のが ) れられぬ因縁で、その 令室 ( おくがた ) の夫というが、 旅行 ( たび ) さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
その 変化沙汰 ( へんげざた ) のある間、そこに 籠 ( こも ) った、という旅の少年。……
この明さんと、御自分の 令室 ( おくがた ) が、てっきり不義に 極 ( きわま ) った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ 籠 ( こ ) めましょう。
貴僧 ( あなた ) 。
その美しい 令室 ( おくがた ) が、人に 羞 ( は ) じ、世に恥じて、 一室処 ( ひとまどころ ) を 閉切 ( とじき ) って、自分を 暗夜 ( やみ ) に封じ籠めます。
そして、日が 経 ( た ) つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、 浮名 ( うきな ) が立って 濡衣 ( ぬれぎぬ ) 着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、 果 ( はて ) は恋しく、 憧憬 ( あこが ) れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その 思 ( おもい ) と 同一 ( おなじ ) 事。
一歳 ( ひととせ ) か、 二歳 ( ふたとせ ) か、 三歳 ( みとせ ) の後か、明さんは、またも国々を 廻 ( めぐ ) り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家 懐 ( なつか ) し、と思いましょう。
そうなる時には、 令室 ( おくがた ) の、恋の染まった 霊魂 ( たましい ) が、五 色 ( しき ) かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を 吐 ( つ ) く息は、冷たき煙と 立 ( たち ) のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の 情 ( なさけ ) の火が 重 ( かさな ) り、白き炎の花となって、 襖 ( ふすま ) 障子 ( しょうじ ) も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、 灯 ( ともしび ) でもない 明 ( あかり ) に、やがて顔を合わせましょう。
邸は世界の 暗 ( やみ ) だのに。……この十畳は暗いのに。……
明さんの迷った目には、 煤 ( すす ) も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は 名香 ( めいこう ) の 薫 ( かおり ) が 靡 ( なび ) く、と心時めき、この世の 一切 ( すべて ) を 一室 ( ひとま ) に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、 令室 ( おくがた ) を一目見ると、唄の女神と思い 祟 ( あが ) めて、 跪 ( ひざまず ) き、伏拝む。
長く冷たき黒髪は、玉の緒を 揺 ( ゆ ) る琴の糸の肩に 懸 ( かか ) って響くよう、 互 ( たがい ) の口へ出ぬ声は、 膚 ( はだ ) に波立つ 血汐 ( ちしお ) となって、聞こえぬ耳に 調 ( しらべ ) を通わす、 幽 ( かすか ) に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、 戦 ( わなな ) く 裳 ( もすそ ) と、震える 膝 ( ひざ ) は、漂う雲に乗る心地。
ああこれこそ、我が母君……と 縋 ( すが ) り寄れば、乳房に重く、胸に 軽 ( かろ ) く、手に柔かく 腕 ( かいな ) に 撓 ( たゆ ) く、女は我を忘れて、抱く――
我児 ( わがこ ) 危い、 目盲 ( めし ) いたか。罪に落つる谷底の 孤家 ( ひとつや ) の灯とも 辿 ( たど ) れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、 電 ( いなずま ) となって壁に 閃 ( ひら ) めき、分れよ、 退 ( の ) けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、 情 ( なさけ ) の露は樹に 灌 ( そそ ) ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の 旭 ( あさひ ) の影には 瑠璃 ( るり ) 、 紺青 ( こんじょう ) 、 紅 ( くれない ) の 雫 ( しずく ) ともなるものを。
罪の世の御二人には、ただ 可恐 ( おそろ ) しく、 凄 ( すさま ) じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、 児 ( こ ) を思うさえ恋となる、天上の 規 ( のり ) を越えて、 掟 ( おきて ) を破って、母君が、雲の上の 高楼 ( たかどの ) の、玉の 欄干 ( らんかん ) にさしかわす、 桂 ( かつら ) の枝を引寄せて、それに 縋 ( すが ) って御殿の外へ。
空に 浮 ( うか ) んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が 倒 ( さかさま ) に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の 霄 ( そら ) へ落ちている。あの、その上を、ただ 一条 ( ひとすじ ) 、霞のような 御裳 ( おすそ ) でも、 撓 ( たわわ ) に揺れる 一枝 ( ひとえだ ) の桂をたよりになさる 危 ( あぶな ) さ。
おともだちの
上※ ( じょうろう ) たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の 音 ( ね ) を 留 ( とど ) めて、はらはらと 立 ( たち ) かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、 笄 ( こうがい ) がキラキラと、星に映って見えましょう。座敷で 暗 ( やみ ) から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは 仇 ( あだ ) し 婦 ( おんな ) 、と気が着くと、 襖 ( ふすま ) も壁も、 大紅蓮 ( だいぐれん ) 。 跪居 ( ついい ) る畳は針の 筵 ( むしろ ) 。袖には 蛇 ( くちなわ ) 、膝には 蜥蜴 ( とかげ ) 、 目 ( ま ) の 前 ( あたり ) 見る地獄の 状 ( さま ) に、五体はたちまち氷となって、 慄然 ( ぞっ ) として身を 退 ( ひ ) きましょう。が、もうその時は 婦人 ( おんな ) の一念、大 鉄槌 ( てっつい ) で砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
胸の 思 ( おもい ) は火となって、上手が書いた金銀ぢらしの 錦絵 ( にしきえ ) を、炎に 翳 ( かざ ) して見るような、 面 ( おもて ) も 赫 ( かっ ) と、 胡粉 ( ごふん ) に注いだ 臙脂 ( えんじ ) の 目許 ( めもと ) に、 紅 ( くれない ) の涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。 恐怖 ( おそれ ) と、 恥羞 ( はじ ) に震う身は、 人膚 ( ひとはだ ) の 温 ( あたた ) かさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、 懐 ( なつか ) しさが劣らずなって、振切りもせず、また 猶予 ( ためら ) う。
思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を 推量 ( おしはか ) って、多勢の
たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが 望 ( のぞみ ) の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」と、神々しいまで 面 ( おもて ) 正しく。……
僧は合掌して聞くのであった。
そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この 美人 ( たおやめ ) の手、一たび我に触れなば、 立処 ( たちどころ ) にその唄を聞き得るであろうと思った。
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