University of Virginia Library

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二十九

「それが 貴僧 あなた 前刻 さっき お話をしかけました、あの 手毬 てまり の事なんです。」

「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」

「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」

 と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は 一膝 ひとひざ 進めたのである。

「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を 歩行 ある きますのも、 せん ずる処、ある意味の手毬唄を……」

「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」

「夢とも、 うつつ とも、幻とも……目に見えるようで、口には えぬ――そして、優しい、 なつか しい、あわれな、情のある、愛の こも った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、 悚然 ぞっ とする、胸を

[_]
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掻※ かきむし るような、あの、 恍惚 うっとり となるような、まあ例えて言えば、 かんば しい清らかな乳を含みながら、生れない さき に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、 憧憬 あこが れて、それを聞きたいと思いますんです。」

 この数分時の ことば うち に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の の葉の ささや きまで、稲妻のごとく胸の うち に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、 さっ 金字 こんじ 紺泥 こんでい に瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。

「して、その唄は、 貴下 あなた お聞きになったことがございましょうか。」

小児 こども の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。

 年を取るに従うて、まるで 貴僧 あなた 、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。

 東京のある学校を 卒業 ますのを まち かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。

 第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。

 ト夢のように心着いたのは、 同一 おなじ 町に三人あった、 同一 おなじ 年ごろの娘です。

(産んだその子が男の なら、
 京へ ぼせて狂言させて、
 寺へ上ぼせて 手習 てならい させて、
 寺の和尚が、
 道楽和尚で、
 高い縁から突落されて、
  こうがい 落し
  小枕 こまくら 落し、)

 と、よく私を遊ばせながら、母も わか かった、その娘たちと、毬も突き、 追羽子 おいはご もした事を うつつ のように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた 夜半 よなか には、むっくりと起きて、嬉しさに 雀躍 こおどり をしたんですが、 貴僧 あなた 、その うち の一人は、まだ母の存命の内に、 ひな 祭の夜なくなりました。それは私も知っている――

 一人は行方が知れない、と言います……

 やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず し、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、 小流 こながれ があって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその 古樹 ふるき がちらほら残って、 真盛 まっさか りの、 朧月夜 おぼろづきよ の事でした。

 今 貴僧 あなた がここへいらっしゃる玄関前で、 紫雲英 げんげ の草を くぐ る兎を見たとおっしゃいました、」

「いや、肝心のお話の うち へ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。」

背後 うしろ が直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。

 が、似た事のありますものです――その時は 小狗 こいぬ でした。鈴がついておりましたっけ。 白垢 むく 真白 まっしろ なのが、ころころと 仰向 あおむ けに手をじゃれながら 足許 あしもと を転がって きます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。

 まさか 奥様 おくさん に、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと――

夜中 やちゅう 何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には かか れません。)

 と云って いや な顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」