草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十一
「 真日中 ( まひなか ) に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。 出会 ( いであ ) えば 傍 ( わき ) へ外れ、 遣過 ( やりす ) ごして 背後 ( うしろ ) を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ 終 ( おお ) せぬ、見て驚くは 其奴 ( そやつ ) の罪じゃ。
いかに客僧、まだ 拙者 ( それがし ) を疑わるるか。」
と 莞爾 ( かんじ ) として、客僧の坊主頭を、やがて天井から 瞰下 ( みおろ ) しつつ、
「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に 罷在 ( まかりあ ) るを 怪 ( あやし ) まるるか。うむ、疑いに
※ ( みは ) られたな。 ※ ( みひら ) いたその瞳も、直ちに瞬く。およそ天下に、 夜 ( よ ) を一目も寝ぬはあっても、 瞬 ( またたき ) をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ 夥間 ( なかま ) 一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、 御身 ( おみ ) 等が 顔容 ( かおかたち ) 、衣服の 一切 ( すべて ) 、 睫毛 ( まつげ ) までも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも 活 ( い ) けるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
すべて一たびただ一 人 ( にん ) の瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、 木 ( こ ) の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え 失 ( う ) するものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを 怪 ( あやし ) むまい。」
と悠然として 打頷 ( うちうなず ) き、
「そこでじゃ、客僧。
たといその者の、自から招く 禍 ( わざわい ) とは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは 怪 ( あやし ) まず、 行燈 ( あんどう ) の火の不意に消ゆるに 喚 ( わめ ) き、天に星の飛ぶを 訝 ( いぶか ) らず、地に 瓜 ( うり ) の躍るに絶叫する者どもが、われら一類が 為 ( な ) す 業 ( わざ ) に 怯 ( おびや ) かされて、その者、心を破り、気を 傷 ( きずつ ) け、身を 損 ( そこな ) えば、おのずから引いて、我等修業の 妨 ( さまたげ ) となり、従うて罪の 障 ( さわり ) となって、実は 大 ( おおい ) に迷惑いたす。」
と、やや歎息をするようだったが、 更 ( あらた ) めて、また言った。
「時に、この邸には、当月はじめつ 方 ( かた ) から、別に 逗留 ( とうりゅう ) の客がある。 同一 ( おなじ ) 境涯にある 御仁 ( ごじん ) じゃ。われら附添って 眷属 ( けんぞく ) ども一同守護をいたすに、元来、 人足 ( ひとあし ) の絶えた空屋を求めて 便 ( たよ ) った処を、 唯今 ( ただいま ) 眠りおる少年の、身にも命にも替うる 願 ( ねがい ) あって、身命を 賭物 ( かけもの ) にして、推して 草叢 ( くさむら ) に 足痕 ( あしあと ) を留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から 追払 ( おっぱら ) うが、弱ったのはこの少年じゃ。
顔容 ( かおかたち ) に似ぬその志の堅固さよ。ただお 伽 ( とぎ ) めいた事のみ語って、自からその 愚 ( おろか ) さを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと 手酷 ( てひど ) い 試 ( こころみ ) をやった。
あるいは大磐石を胸に落し、我その上に 蹈跨 ( ふみまたが ) って 咽喉 ( のど ) を 緊 ( し ) め、五体に七筋の蛇を 絡 ( まと ) わし、 牙 ( きば ) ある 蜥蜴 ( とかげ ) に 噛 ( か ) ませてまで 呪 ( のろ ) うたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、 我 ( が ) 折れ果てた。
よって最後の試み、としてたった今、 少年 ( これ ) に人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、 御身 ( おみ ) じゃよ。」
と、じろじろと見るのである。
覚悟しながら 戦 ( おのの ) いて、
「ここは、ここは、ここは、 冥土 ( めいど ) か。」
と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を 湛 ( たた ) え、くつくつ 忍笑 ( しのびわら ) いして、
「いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし 魘 ( うな ) された時、客僧、何と、胸が痛かったろう。」
ズキリと 応 ( こた ) えて、
「おお、」
「すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。」
「…………」
「別でない。それそれその戸袋に 載 ( の ) った 朱泥 ( しゅでい ) の 水差 ( みずさし ) 、それに 汲 ( く ) んだは井戸の水じゃが、久しい 埋井 ( うもれい ) じゃに因って、水の色が 真蒼 ( まっさお ) じゃ、まるで透通る草の汁よ。
客僧等が茶を参った、 爺 ( じじい ) が汲んで来た、あれは川水。その 白濁 ( しろにごり ) がまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、 前 ( さき ) に猫の死骸の流れたのを見たために、 得 ( え ) 飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。
今も言う通りだ。殺さぬまでに 現責 ( うつつぜめ ) に苦しめ呪うがゆえ、 生命 ( いのち ) を縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に 緋 ( ひ ) の 扱帯 ( しごきおび ) した、 面 ( つら ) が 狗 ( いぬ ) の、召使に持たせて、われら秘蔵の 濃緑 ( こみどり ) の酒を、 瑠璃色 ( るりいろ ) の 瑪瑙 ( めのう ) の 壺 ( つぼ ) から、 回生剤 ( きつけ ) として、その水にしたたらして置くが 習 ( ならい ) じゃ。」
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