草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十二
「少年は 味 ( あじお ) うて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。
我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。(ただ一口試みられよ、 爽 ( さわやか ) な涼しい 芳 ( かんば ) しい酒の味がする、)と云うに因って、客僧、 御身 ( おんみ ) はなおさら 猶予 ( ためら ) う、手が出ぬわ。」
とまた 微笑 ( ほほえ ) み、
「毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は 苦悶 ( くもん ) し、 煩乱 ( はんらん ) し、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。」
客僧は色 真蒼 ( まっさお ) である。
「驚いて少年が介抱する。が、もう 叶 ( かな ) わぬ、臨終という時、
(われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、 疾 ( と ) くこの恐しき魔所を 遁 ( のが ) れられよ。)
と遺言する。これぞ、われらの 誂 ( あつらえ ) じゃ。
蚊帳の中で、少年の 魘 ( うな ) されたは、この夢を見た時よ、なあ。
これならば 立退 ( たちの ) くであろう、と思うと、ああ、 埒 ( らち ) あかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。
葛籠 ( つづら ) に秘め置く、 守刀 ( まもりがたな ) をキラリと引抜くまで、 襖 ( ふすま ) の蔭から見定めて、
(ああ、しばらく、)
と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。
これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや 余所 ( よそ ) へ 立退 ( の ) くじゃが。
その以前、 直々 ( じきじき ) に貴面を得て、客僧に 申 ( もおし ) 談じたい儀があると 謂 ( い ) わるる。
客は 女性 ( にょしょう ) でござるに因って、一応 拙者 ( それがし ) から申入れる。ためにこれへ 罷出 ( まかりいで ) た。
秋谷悪左衛門取次を致す、」
と高らかに云って、 穏和 ( おだやか ) に、
「お逢い下さりょうか、いかが、」
と云った。
僧は思わず、
「は、」と答える。
声も終らず、小山のごとく膝を 揺 ( ゆら ) げ、向け直したと見ると、
「ござらっしゃい!」
破鐘 ( われがね ) のごときその大音、 哄 ( どっ ) と響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の 形体 ( ぎょうたい ) 、片隅の暗がりへ 吸込 ( すいこ ) まれたようにすッと 退 ( の ) いた、が 遥 ( はるか ) に小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその 衣 ( きぬ ) の色も、 袴 ( はかま ) の色も、顔の色も、 頭 ( かしら ) の毛の 総髪 ( そうがみ ) も、 鮮麗 ( あざやか ) になお目に映る。
「御免遊ばせ。」
向うから襖一枚、 颯 ( さっ ) と 蒼 ( あお ) く色が変ると、 雨浸 ( あまじみ ) の鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。
ト見ると、房々とある 艶 ( つや ) やかな黒髪を、 耳許 ( みみもと ) 白く 梳 ( くしけず ) って、 櫛巻 ( くしまき ) にすなおに結んだ、顔を 俯向 ( うつむ ) けに、 撫肩 ( なでがた ) の、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、 衣紋 ( えもん ) 白く、空色の 長襦袢 ( ながじゅばん ) に、 朱鷺色 ( ときいろ ) の無地の 羅 ( うすもの ) を 襲 ( かさ ) ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、 乳 ( ち ) のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、 浅葱 ( あさぎ ) が透き、 膚 ( はだ ) の雪も 幽 ( かすか ) に透く。
黒髪かけて、襟かけて、月の 雫 ( しずく ) がかかったような、 裾 ( すそ ) は 捌 ( さば ) けず、しっとりと 爪尖 ( つまさ ) き 軽 ( かろ ) く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、 果 ( はて ) なき夜の暗さを引いたが、 歩行 ( ある ) くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に 雪洞 ( ぼんぼり ) が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが 狗 ( いぬ ) の顔、と思いをめぐらす暇もない。
僧は前に 彳 ( たたず ) んだのを 差覗 ( さしのぞ ) くように一目見て、
「わッ、」
とばかりに 平伏 ( ひれふ ) した。 実 ( げ ) にこそその 顔 ( かんばせ ) は、爛々たる 銀 ( しろがね ) の 眼 ( まなこ ) 一 双 ( なら ) び、 眦 ( まなじり ) に紫の 隈 ( くま ) 暗く、頬骨のこけた 頤 ( おとがい ) 蒼味がかり、浅葱に 窩 ( くぼ ) んだ唇裂けて、 鉄漿 ( かね ) 着けた口、 柘榴 ( ざくろ ) の舌、耳の根には針のごとき 鋭 ( と ) き 牙 ( きば ) を 噛 ( か ) んでいたのである。
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