草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
二
修業中の小次郎法師が、諸国一見の 途次 ( みちすがら ) 、相州三崎まわりをして、 秋谷 ( あきや ) の海岸を通った時の事である。
件 ( くだん ) の 大崩壊 ( おおくずれ ) の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり 前途 ( ゆくて ) に見渡す、街道 端 ( ばた ) の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、 簾 ( すだれ ) に透かして描いたような、ちょっとした 葭簀張 ( よしずばり ) の茶店に休むと、 媼 ( うば ) が口の長い 鉄葉 ( ブリキ ) の 湯沸 ( ゆわかし ) から、渋茶を 注 ( つ ) いで、 人皇 ( にんのう ) 何代の 御時 ( おんとき ) かの箱根細工の木地盆に、 装溢 ( もりこぼ ) れるばかりなのを差出した。
床几 ( しょうぎ ) の 在処 ( ありか ) も狭いから、今注いだので、 引傾 ( ひっかたむ ) いた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸に 靡 ( なび ) いたが、それさえ 颯 ( さっ ) と涼しい風で、冷い霧のかかるような、 法衣 ( ころも ) の袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。
爽 ( さわやか ) な心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿の 繋 ( つな ) ぎめを、 押遣 ( おしや ) って、
「千両、」とがぶりと呑み、
「ああ、 旨 ( うま ) い、これは結構。」と 莞爾 ( にっこり ) して、
「おいしいついでに、何と、それも 甘 ( うま ) そうだね、二ツ三ツ取って下さい。」
「はいはい、この団子でござりますか。これは 貴方 ( あなた ) 、田舎出来で、 沢山 ( たんと ) 甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も 餡子 ( あんこ ) も、小米と小豆の 生 ( き ) 一本でござります。」
と小さな 丸髷 ( まげ ) を、ほくほくもの、 折敷 ( おしき ) の上へ小綺麗に取ってくれる。
扇子 ( おうぎ ) だけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツ 撮 ( つま ) もうとした時であった。
「ヒイ、ヒイヒイ!」と 唐突 ( だしぬけ ) に奇声を放った、 濁声 ( だみごえ ) の 蜩 ( ひぐらし ) 一匹。
法師が入った口とは 対向 ( さしむか ) い、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって 前刻 ( さっき ) から――胸をはだけた、手織 縞 ( じま ) の汚れた 単衣 ( ひとえ ) に、 弛 ( ゆる ) んだ帯、煮染めたような 手拭 ( てぬぐい ) をわがねた首から、 頸 ( うなじ ) へかけて、耳を 蔽 ( おお ) うまで髪の伸びた、色の黒い、 巌乗 ( がんじょう ) 造りの、身の丈抜群なる 和郎 ( わろ ) 一人。目の光の 晃々 ( きらきら ) と 冴 ( さ ) えたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと
※ ( みまわ ) していたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその 体 ( てい ) は、いずれ 界隈 ( かいわい ) の 怠惰 ( なまけ ) ものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を 吃 ( きっ ) して、和郎の顔と、折敷の団子を見 較 ( くら ) べた。「 串戯 ( じょうだん ) ではない、お 婆 ( ばあ ) さん、お前は見懸けに寄らぬ 剽軽 ( ひょうきん ) ものだね。」
「何でござりますえ。」
「いいえさ、この団子は、こりゃ泥か 埴土 ( ねばつち ) で 製 ( こしら ) えたのじゃないのかい。」
「滅相なことをおっしゃりまし。」
と 年寄 ( としより ) は真顔になり、見上げ 皺 ( じわ ) を 沢山 ( たんと ) 寄せて、
「何を貴方、勿体もない。 私 ( わし ) もはい 法然様 ( ほうねんさま ) 拝みますものでござります。 吝嗇坊 ( しわんぼう ) の柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。」
真正直 ( まっしょうじき ) に言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。
「何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は 冗戯 ( じょうだん ) だが、旅をすれば色々の事がある。 駿州 ( すんしゅう ) の阿部川 餅 ( もち ) は、そっくり 正 ( しょう ) のものに木で 拵 ( こしら ) えたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、」
と 其方 ( そなた ) を見た、和郎はきょとんと 仰向 ( あおむ ) いて、烏も 居 ( お ) らぬに何じゃやら、 頻 ( しきり ) に空を仰いでござる。
「 唐突 ( だしぬけ ) に笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。」
「ええ、ええ、いいえ、お前様、」
とこざっぱりした前かけの 膝 ( ひざ ) を 拍 ( たた ) き、近寄って声を 密 ( ひそ ) め、
「これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、」
と云って、独りで 媼 ( うば ) は 頷 ( うなず ) いた。問わせたまわば、その 仔細 ( しさい ) の儀は承知の趣。
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