University of Virginia Library

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三十七

 烏が一羽 歴然 ありあり と屋根に見えた。ああ、あの下 あたり で、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。

 この姿は、 むぐら を分けて忍び寄ったはじめから、 目前 めさき 朦朧 もうろう と映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を くぐ るようでもあるし、浮き上って 葉尖 はさき を渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の 身体 からだ と、竹槍との組合せで、 月明 つきあかり には、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。

 ト見ると、肩のあたりの、すらすらと やさし いのが、いかに月に描き直されたればとて、 くわ を担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。

 その細腰を 此方 こなた へ、背を ななめ にした すそ が、 はぎ のあたりへ かわら を敷いて、細くしなやかに 掻込 かいこ んで、 蹴出 けだ したような 褄先 つまさき が、中空なれば遮るものなく、 便 たより なさそうに、しかし かろ く、軒の 蜘蛛 くも の大きなのに、はらりと乗って、 水車 みずぐるま に霧が かか った風情に見える。背筋の なび く、 頸許 えりもと のほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は おぼろ ながら、濃い黒髪は緑を つか ねて、森の影が雲かと落ちて、その おもかげ をうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ さま で、二の腕の腹を 此方 こなた へ、雪のごとく白く見せて、 しずか びん の毛を でていた。

  白魚 しらお の指の さき の、ちらちらと髪を くぐ って動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。

  驚破 すわ けだもの か、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根 住居 ずまい してござる。おのれ、見ろ、と一足 退 すさ って竹槍を 引扱 ひきしご き、鳥を差いた覚えの こつ で、スーッ! 突出 つきだ した得物の さき が、右の袖下を くぐ るや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。

  つち が急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。 他愛 たわい なく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と 白粉 おしろい の花の上。

 と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、 南無三宝 なむさんぼう 仰向 あおむ けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の 真中 まんなか あたり、 鳩尾 みぞおち を、土足で んでいようでないか。

 仁右衛門ぶるぶるとなり、 据眼 すえまなこ じっ と見た、白い 咽喉 のんど をのけ ざま に、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、 初産 ういざん に世を去った 御新姐 ごしんぞ である。

 親仁は 天窓 あたま から氷を浴びた。

 恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。

 うむ、と うめ かれて、ハッと開くと、 もと の足で踏みかける。 顛倒 てんどう して慌てるほど、 身体 からだ のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から 垂々 だらだら と血を吐くのが、 咽喉 のど かか り、胸を染め、乳の下を さっ と流れて、仁右衛門の あしのうら 生暖 なまあたたこ う垂れかかる。

 あッと腰を抜いて、手を くと、その黒髪を 掻掴 かいつか んだ。

 御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、 踏躪 ふみにじ られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、 莞爾 にっこり する、……その唇から血が流れる。

 足は にかわ で附けたよう。

  同一 おなじ 処で うごめ く処へ、宰八の声が聞えたので、 救助 たすけ を呼ぶさえ 呻吟 うめ いたのであった。

 かくて、手を取って 引立 ひった てられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ 粘々 ねばねば する、手はこの通り血だらけじゃ、と おのの いたが、行燈に透かすと夜露に れて白けていた。

折れ何とも、六十の親仁が 天窓 あたま を下げる。宰八、 夜深 よふか じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に りたくない、 生命 いのち ばかりはお助けじゃ。」

 と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。

 そこで、表門へ廻った二人は、と みんな 連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。 狐饂飩 きつねうどん の亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に げた、と言う。

 何を見て驚いたか、 渠等 かれら かぶり って語らない。一人は はかま 穿 いた官女の、目の黒い、耳の がった すさま じき女房の、 薄雲 うすぐもり の月に袖を重ねて、木戸口に たたず んだ姿を見たし、一人は朱の つら した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程 って ほのか れ聞える。――