草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十八
二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの 二隅 ( ふたすみ ) と、障子と、 襖 ( ふすま ) と、両方の 鴨居 ( かもい ) の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、 紅麻 ( こうあさ ) の 裾 ( すそ ) 長く 曳 ( ひ ) いて、縁側の 方 ( かた ) に枕を並べた。
一 ( ある ) 日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
いずれそれも、怪しき 事件 ( こと ) の一つであろう。……あわれ、この 少 ( わか ) き人の、聞くがごとくんば連日の 疲労 ( つかれ ) もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て 現 ( うつつ ) なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に 瞻 ( みまも ) らるるは床の間を 背後 ( うしろ ) にした 仄白々 ( ほのしろじろ ) とある 行燈 ( あんどう ) 。
楽書 ( らくがき ) の文字もないが、今にも畳を離れそうで、 裾 ( すそ ) が伸びるか、 燈 ( ともしび ) が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
「 貴下 ( あなた ) 、 寝冷 ( ねびえ ) をしては 不可 ( いけ ) ません。」
寝苦しいか、白やかな胸を出して、 鳩尾 ( みぞおち ) へ踏落しているのを、 痩 ( や ) せた胸に 障 ( さわ ) らないように、 密 ( そ ) っと 引掛 ( ひっか ) けたが何にも知らず、まず 可 ( よ ) かった。――仁右衛門が見た 御新姐 ( ごしんぞ ) のように、この手が触って血を吐きながら、 莞爾 ( にっこり ) としたらどうしょう。
そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を 塞 ( ふさ ) ぐ、と塞ぐ後から、 睫 ( まぶた ) がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が 冴 ( さ ) えて寝られぬのである。
掻巻 ( かいまき ) を 引被 ( ひっかぶ ) れば、 衾 ( ふすま ) の袖から襟かけて、 大 ( おおき ) な 洞穴 ( ほらあな ) のように覚えて、足を 曳 ( ひ ) いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
すぽりと脱いで、坊主 天窓 ( あたま ) をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
そこで 屹 ( きっ ) となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
「 衆怨悉退散 ( しゅうおんしったいさん ) 、」
と 仰向 ( あおむ ) けのまま 呪 ( じゅ ) すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か 枕許 ( まくらもと ) へ来たのがある。
が、 雨垂 ( あまだれ ) とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで
現 ( うつ ) でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は 確 ( たしか ) に頬にかかった。やっと冷たいのが知れて、 掌 ( てのひら ) で 撫 ( な ) でると、 冷 ( ひや ) りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る 燈 ( ともしび ) の影に 透 ( すか ) したが、 幸 ( さいわい ) に、血の 点滴 ( したたり ) ではない。
さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って 雫 ( しずく ) するばかり、はらはらと降り 灌 ( そそ ) ぐ。
耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど 侘 ( わび ) しいものはない。けれども、 雨漏 ( あまもり ) にも 旅馴 ( たびな ) れた僧は、押黙って 小止 ( おやみ ) を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、 刎上 ( はねあが ) って 繁吹 ( しぶき ) が立ちそう。
屋根で、 鵝鳥 ( がちょう ) が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、 鼻頭 ( はなづら ) に 浸 ( にじ ) んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って 掻遣 ( かいや ) りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで 捲 ( まく ) れた 寝衣 ( ねまき ) の袖を引伸ばしながら、
「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」
と呼んだが答えぬ。
目敏 ( めざと ) そうな人物が、と驚いて手を 翳 ( かざ ) すと、 薄 ( すすき ) の穂を 揺 ( ゆすぶ ) るように、すやすやと 呼吸 ( いき ) がある。
「ああ、よく寝られた。」
と 熟 ( じっ ) と顔を見ると、明の、 眦 ( まなじり ) の切れた 睫毛 ( まつげ ) の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、 同一 ( おなじ ) 雨垂れに濡れたか、あらず。……
来方 ( こしかた ) は我にもあり、ただ 御身 ( おんみ ) は髪黒く、顔白きに、我は 頭 ( かしら ) 蒼 ( あお ) く、 面 ( つら ) の黄なるのみ。 同一 ( おなじ ) 世の 孤児 ( みなしご ) よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
四辺 ( あたり ) を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が 身体 ( からだ ) ばかりで、明の床には、 夜 ( よ ) をあさる 蚤 ( のみ ) も 居 ( お ) らぬ。
南無三宝、魔物の 唾 ( つば ) じゃ。
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