草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
二十
「その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒は 食 ( あが ) らぬか。晩の物だけ 重詰 ( じゅうづめ ) にして、夜さりまた 掻餅 ( かきもち ) でも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持って 行 ( ゆ ) け。
言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを 引背負 ( ひっしょ ) って出向いたがよ。
へい、お客様 前刻 ( せんこく ) は。……本宅でも 宜 ( よろ ) しく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。 一餉 ( ひとかたけ ) ほんのお弁当がわり。お茶と、それから 臥 ( ふせ ) らっしゃるものばかり。どうぞハイ 緩 ( ゆっく ) り休まっしゃりましと、口上言うたが、着物は 既 ( すんで ) に浴衣に着換えて、 燭台 ( しょくだい ) の 傍 ( わき ) へ……こりゃな、仁右衛門や 私 ( わし ) が時々見廻りに 行 ( ゆ ) く時、 皆 ( みんな ) 閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。…… 先 ( せん ) に案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取り 敢 ( あえ ) ず 点 ( とも ) して置いたもんだね。そのお 前様 ( めえさま ) 、 蝋燭火 ( ろうそくび ) の 傍 ( わき ) に、首い 傾 ( かし ) げて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。
(どうかさっせえましたか。)と尋ねるとの。
ここだ!」
と 唐突 ( だしぬけ ) に 屹 ( きっ ) と云う。
「ええ何か、」と訓導は 一足 ( ひとあし ) 退 ( の ) く。
宰八は委細構わず。
「手毬の消えたちゅうがよ。(ここに 確 ( たしか ) に置いたのが見えなくなった、)と若え方が言わっしゃるけ。
そうら、始まったぞ、と 私 ( わし ) 一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ――どんな風に、 失 ( な ) くなったか、はあ、聞いたらばの。
三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ 打附 ( ぶつか ) ったものがあった…… 大 ( おおき ) な石でも落ちたようで、 吃驚 ( びっくり ) して天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お 巡査 ( まわり ) 様が 階子 ( はしご ) さして、天井裏へ 瓦斯 ( がす ) を 点 ( つ ) けて 這込 ( はいこ ) まっしゃる拍子に、 洋刀 ( サアベル ) の 鐺 ( こじり ) が 上 ( あが ) って 倒 ( さかさま ) になった 刀 ( み ) が抜けたで、下に居た 饂飩 ( うどん ) 屋の 大面 ( おおづら ) をちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。
どんと 倒落 ( さかおと ) しに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、(これは、と思うと縁へ出て)……と客人の若え方が言わっしゃったで、 私 ( わし ) は思わず 傍 ( わき ) へ 退 ( の ) いたが。
庭へ下りて、草 茫々 ( ぼうぼう ) の中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、 忽然 ( こつねん ) と消えちゅうは、……ここの事だね。」
「消えたか、落したか分るもんか。」
「はあ、分らねえから、変でがしょ、」
「何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。」
「でも、お 前様 ( めえさま ) 、その猫がね、」
「それも猫だか、 鼬 ( いたち ) だか、それとも
、知れたもんじゃない。森の中だもの、 兎 ( うさぎ ) だって居るかも知れんさ。」「そのお前様、知れねえについてでがさ。」
「だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。」
「はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。」
無言なり。
「 前方 ( さき ) へ行って目をまわしっけ、」
「馬鹿、」
と 憤然 ( むっ ) とした調子で 呟 ( つぶや ) く。
きかぬ気の宰八、 紅 ( くれない ) の 鋏 ( はさみ ) を 押立 ( おった ) て、
「お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。」
「 当前 ( あたりまえ ) です、学校の用を欠いて、そんな 他愛 ( たわい ) もない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。」
「へ、お前様なんざ、畳が 刎 ( は ) ねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。」
「何を、」
「 私 ( わし ) なんざ 臆病 ( おくびょう ) でも、その位の事にゃ 馴 ( な ) れたでの、船へ乗った気で 押 ( おっ ) こらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……」
「宰八よ、」
と陰気な声する。
「おお、」
「ぬしゃまた何も向う 面 ( づら ) になって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので 押伏 ( おっぷ ) せられそうな心持だ。」
と 溜息 ( ためいき ) をして云った。浮世を 鎖 ( とざ ) したような黒門の 礎 ( いしずえ ) を、 靄 ( もや ) がさそうて、向うから押し拡がった、 下闇 ( したやみ ) の草に踏みかかり、 茂 ( しげり ) の中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、
「わっ、」
と叫んだ。
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