草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
四十
客僧は思案して、心を落着け、 衣紋 ( えもん ) を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの 挙動 ( ふるまい ) は、木曾街道の 盗賊 ( ものどり ) めく。
不浄よけの 金襴 ( きんらん ) の 切 ( きれ ) にくるんだ、たけ三寸ばかり、 黒塗 ( くろぬり ) の小さな 御厨子 ( みずし ) を捧げ出して、 袈裟 ( けさ ) を机に折り、その上へ。
元来 ( もと ) この座敷は、京ごのみで、一間の床の間に 傍 ( かたわら ) に、高い袋戸棚が附いて、 傍 ( かたえ ) は直ぐに縁側の、戸棚の横が満月 形 ( なり ) に庭に望んだ丸窓で、 嵌込 ( はめこみ ) の戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが 故郷 ( ふるさと ) の家の、書院の構えにそっくりで、 懐 ( なつか ) しいばかりでない。これもここで 望 ( のぞみ ) の達せらるる 兆 ( きざし ) か、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、 卓子 ( テエブル ) 擬 ( まが ) いの机に使って、 旅硯 ( たびすずり ) も据えてある。椅子がわりに 脚榻 ( きゃたつ ) を置いて。……
周囲 ( まわり ) が広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。
そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、 深切 ( しんせつ ) な宰八 爺 ( じじ ) いは、夜の 具 ( もの ) と一所に、机を 背負 ( しょっ ) て来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、 埃 ( ほこり ) は据えず差置いた。心に 叶 ( かな ) って 逗留 ( とうりゅう ) もしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。
その机を、今ここへ。
御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと 四辺 ( あたり ) を 視 ( み ) た時、蚊帳の中で、 三声 ( みこえ ) ばかり、 太 ( いた ) く明が 魘 ( うな ) された。が…… 此方 ( こなた ) の胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、 幸 ( さいわい ) にまた 静 ( しずか ) になった。
障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。 頻 ( しきり ) に気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての 襖 ( ふすま ) の合せ目である。
「わが仏守らせたまえ。」
と祈念なし、机を取って、 押戴 ( おしいただ ) いて、 屹 ( きっ ) と見て、 其方 ( そなた ) へ、と座を立とうとする。
途端であった。
「しばらく。」
ずしん、 地 ( じ ) の底へ響く声がした。
明が呼んだか、と思う蚊帳の 中 ( うち ) で、また 烈 ( はげ ) しく 魘 ( うな ) されるので、 呼吸 ( いき ) を詰めて、
「…………」
色を変える。
襖の陰で、
「客僧しばらく―― 唯今 ( ただいま ) それへ参るものがござる。往来を 塞 ( ふさ ) ぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、 御身 ( おみ ) に向うて、害を加うる 仔細 ( しさい ) はない。」
ト見ると襖から 承塵 ( なげし ) へかけた、 雨 ( あま ) じみの 魍魎 ( もうりょう ) と、肩を並べて、その 頭 ( かしら ) 、 鴨居 ( かもい ) を越した偉大の人物。眉太く、 眼円 ( まなこつぶら ) に、鼻隆うして口の 角 ( けた ) なるが、 頬肉 ( ほおじし ) 豊 ( ゆたか ) に、あっぱれの人品なり。 生 ( き ) びらの 帷子 ( かたびら ) に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、 同一 ( おなじ ) 色の無地の 袴 ( はかま ) 、折目高に 穿 ( は ) いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき 短 ( みじか ) な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、 動 ( ゆる ) ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に 圧 ( お ) された僧は、ひしと 茶斑 ( ちゃまだら ) の大牛に 引敷 ( ひっし ) かれたる心地がした。
はっと机に、 突俯 ( つッぷ ) そうとする胸を支えて、
「誰だ。」
と言った。
「六十余州、 罷通 ( まかりとお ) るものじゃ。」
「何と申す、 何人 ( なんぴと ) ……」
「到る処の悪左衛門、」
と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に 罷在 ( まかりあ ) る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪…………」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪……魔、人間を 呪 ( のろ ) うものか。」
「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、 夜鴉 ( よがらす ) の 羽 ( は ) うらも輝き、瀬の 鮎 ( あゆ ) の 鱗 ( うろこ ) も光る。 隈 ( くま ) なき月を見るにさえ、 捨小舟 ( すておぶね ) の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって 茅屋 ( かやや ) の屋根ではないか。
しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、 損 ( そこな ) わるるは自業自得じゃ。」
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