草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十二
「日が 経 ( た ) ってから、叔母が私の 枕許 ( まくらもと ) で、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
(妹の声は私も聞きたい。)
と、 手函 ( てばこ ) の 金子 ( かね ) を授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。
国を出て、足かけ五年!
津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その 前 ( さき ) か、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また 小児 ( こども ) たちも、手毬が下手になったので、 終 ( しまい ) まで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。
とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、 稚 ( おさな ) ともだちばかり、矢も 楯 ( たて ) も 堪 ( たま ) らず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。 高峰 ( たかね ) へかかる雲を見ては、 蔦 ( つた ) をたよりに 縋 ( すが ) りたし、 湖 ( うみ ) を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。 巌穴 ( いわあな ) の底も極めたければ、滝の裏も 覗 ( のぞ ) きたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の 庚申塚 ( こうしんづか ) に一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。
トこの間――名も嬉しい 常夏 ( とこなつ ) の咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。
宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、 月明 ( つきあかり ) の村雨の中を山路へかかって、
細道じゃ。
天神様の細道じゃ、
細道じゃ。)
と童謡を 口吟 ( くちずさ ) んで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」
僧は魅入られたごとくに見えたが、 溜息 ( ためいき ) を 吻 ( ほっ ) と 吐 ( つ ) き、
「まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」
「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……いいえ、……そのものであるらしい。この手毬を 弄 ( もてあそ ) ぶのは、 確 ( たしか ) にその 婦人 ( おんな ) であろう。その婦人は何となく、この 空邸 ( あきやしき ) に姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。
爺さんに 強請 ( ねだ ) って、ここを一 室 ( ま ) 借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その 婦人 ( おんな ) の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。
あるいはこれを、小川の 裾 ( すそ ) の秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩 燦爛 ( さんらん ) として 迸 ( ほとばし ) る。この色が、紫に、緑に、 紺青 ( こんじょう ) に、 藍碧 ( らんぺき ) に波を射て、太平洋へ月夜の 虹 ( にじ ) を敷いたのであろうも計られません、」
とまた 恍惚 ( うっとり ) となったが、 頸 ( うなじ ) を垂れて、
「その 祟 ( たたり ) 、その罪です。このすべての怪異は。――自分の 慾 ( よく ) のために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。
祟らば祟れ!飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。
心の 迷 ( まよい ) か知れませんが。 目 ( ま ) のあたり見ます、怪しさも、 凄 ( すご ) さも、もしや、それが望みの唄を、 何人 ( なんぴと ) かが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです―― 行燈 ( あんどう ) が宙へ浮きましょう。
萌黄 ( もえぎ ) の蚊帳を、
蚊帳のまわりを、姿はなしに、
通る 行燈 ( あんど ) の 俤 ( おもかげ ) や。)……
勿論、こんなのではありません。または、
ちっとも似てはおらんのです。屋根で 鵝鳥 ( がちょう ) が鳴く時は、波に 攫 ( さら ) われるのであろうと思い、板戸に馬の影がさせば、修羅道に 堕 ( お ) ちるか、と驚きながらも、
板戸に 駒 ( こま ) の影がさす。)
と、 現 ( うつつ ) にも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心は 頷 ( うなず ) きません。
いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、 祟 ( たたり ) ならばよし罪は 厭 ( いと ) わん、」
と激しく言いつつ、心づいて、 悄然 ( しょうぜん ) として僧を見た。
「ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うと 情 ( なさけ ) ない。
ああ、お話が 八岐 ( やちまた ) になって、手毬は……そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの 白粉 ( おしろい ) の花の蔭から、
芋※ ( ずいき ) の葉を顔に当てた 小児 ( こども ) が三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくように 傍 ( そば ) へ寄ると、縁側から 覗込 ( のぞきこ ) んで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、(それをおくれ。)と言います。
(お前たちのか。)
と聞くと、 頭 ( かぶり ) を 掉 ( ふ ) るから、
(じゃ、 小父 ( おじ ) さんのだ。)と言うと、男が毬を、という調子に、
(わはは)と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。」――
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