草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十五
「そうふらふらさしちゃ 燈 ( あかり ) が消えます。貸しなさい、私がその 手燭 ( てしょく ) を持とうで。」
「頼んます、はい、どうぞお 前様 ( めえさま ) 持たっせえて、ついでにその 法衣 ( ころも ) 着さっせえ姿から、光明 赫燿 ( かくやく ) と願えてえだ。」
僧は燭を取って一足出たが、
「お爺さん、」
と呼んだのが、 驚破 ( すわや ) 事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を 引込 ( ひっこ ) め、 不具 ( かたわ ) の方と 同一 ( おなじ ) 処で、 掌 ( てのひら ) をあけながら、 据腰 ( すえごし ) で顔を見上げる、と 皺面 ( しわづら ) ばかりが燭の影に 真赤 ( まっか ) になった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う 状 ( さま ) は、鬼が 囁 ( ささや ) くに異ならず。
「ええ、」
「どこか 呻吟 ( うめ ) くような声がするよ。」
「芸もねえ、 威 ( おど ) かしてどうさっせる。」
「聞きなさい、それ……」
「う、う、う、」
と 厭 ( いや ) な声。
「爺さん、お前が呻吟くのかい。」
「いんね、」
と変な顔色で、鼻をしかめ、
「ふん、難産の 呻吟声 ( うめきごえ ) だ。はあ、 御新姐 ( ごしんぞ ) が 唸 ( うな ) らしっけえ、 姑獲鳥 ( うぶめ ) になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」
「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」
「ひええ、今、お前様が 入 ( い ) らっしたばかりでねえかね、」
「されば、」
と斜めに聞澄まして、
「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」
「はあ、」
と宰八も、聞定めて、 吻 ( ほっ ) と息して、
「まず 構外 ( かめえそと ) だ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいと 圧 ( おさ ) えてまた 蹈張 ( ふんば ) り、
「野郎、 入 ( へえ ) ってみやがれ、野郎、 活仏 ( いきぼとけ ) さまが附いてござるだ。」
「仏ではなお 打棄 ( うっちゃ ) っては 措 ( お ) かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か 苦 ( くるし ) んでいるようだよ。」
「これ、静かにさっせえ、 術 ( て ) だ、術だてね。ものその術で、 背負引 ( しょび ) き出して、お前様 天窓 ( あたま ) から塩よ。 私 ( わし ) は手足い 引捩 ( ひんも ) いで、月夜蟹で 肉 ( み ) がねえ、と 遣 ( や ) ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」
「あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。」
「へ、 疾 ( はや ) いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」
と云う時…… 判然 ( はっきり ) 聞えたが、しわがれた声であった。
「助けてくれ……」
「…………」
「…………」
「宰八よう、」――
と、 葎 ( むぐら ) がくれに虫の声。
手 ( てん ) ぼう 蟹 ( がに ) ふるえ上って、
「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」
「何、虫が呼ぶ?」
「ええ、 仁右衛門 ( にえむ ) の声だ。 南無阿弥陀仏 ( なんまいだ ) 、ソ、ソレ見さっせえ。宵に 門前 ( もんまえ ) から 遁帰 ( にげかえ ) った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、 猿智慧 ( さるぢえ ) だね、 打棄 ( うっちゃ ) っておかっせえまし。」
と雨戸を離れて、肩を一つ 揺 ( ゆす ) って 行 ( ゆ ) こうとする。広縁のはずれと覚しき 彼方 ( かなた ) へ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った 燈籠 ( とうろう ) のような 白紙 ( しらかみ ) がふらりと出て、 真四角 ( まっしかく ) に、 燈 ( ともしび ) が 歩行 ( ある ) き出した。
「はッあ、」
と 退 ( すさ ) って、僧に 背 ( せな ) を 摺寄 ( すりよ ) せながら、
「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、 南無 ( なん ) まいだ、なんまいだ。」
僧も 爪立 ( つまだ ) って、 浮腰 ( うきごし ) に透かして見たが、
「 行燈 ( あんどう ) だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは 開 ( あ ) くかい。」
「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」
「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、 情 ( なさけ ) に 抵抗 ( てむか ) う 刃 ( やいば ) はない 筈 ( はず ) 、」
枢 ( くるる ) をかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って 蔽 ( おお ) い果さず、 燈 ( あかり ) は 颯 ( さっ ) と夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、 隈 ( くま ) ある暗き 葎 ( むぐら ) の中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、 四 ( よ ) つに 這廻 ( はいまわ ) るは、そもいかなるものぞ。
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