草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ 遣 ( や ) られた、小僧の時より辛いので、 堪 ( たま ) りかねて、蚊帳の裾を 引被 ( ひっかつ ) いで出たが、さてどこを 居所 ( いどころ ) とも定まらぬ一夜の宿。
消えなんとする 旅籠屋 ( はたごや ) の 行燈 ( かんばん ) を、時雨の軒に便る心で。
僧は
灯燈 ( ともしび ) の 許 ( もと ) に 膝行 ( いざ ) り寄った。寝衣 ( ねまき ) を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を 拭 ( ふ ) こうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
その腕を長く、つき反らして 擦 ( さす ) りながら、
「 衆怨悉退散 ( しゅうおんしったいさん ) 。」
とまた念じて、 静 ( じっ ) と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、 寂 ( しん ) として静まり返る。
また余りの 静 ( しずか ) さに、自分の 身体 ( からだ ) が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、 押瞑 ( おしつぶ ) った目を夢から覚めたように 恍惚 ( うっとり ) と、しかも 円 ( つぶら ) に開けて、 真直 ( まっすぐ ) な燈心を 視透 ( みす ) かした時であった。
飜然 ( ひらり ) と映って、 行燈 ( あんどう ) へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの 大 ( おおき ) な 蜘蛛 ( くも ) 、と 咄嗟 ( とっさ ) に首を 縮 ( すく ) めたが、あらず、 非 ( あら ) ず、柱に触って、やがて 油壺 ( あぶらつぼ ) の前へこぼれたのは、 木 ( こ ) の葉であった、 青楓 ( あおかえで ) の。
僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは 渠 ( かれ ) にも分りはせぬ。
ト続いて、 颯 ( さっ ) と影がさして、 横繁吹 ( よこしぶき ) に乗ったようにさらりと落ちる。
我にもあらず、またもやそれを拾った時、 先 ( せん ) のを、
「一枚、」
と思わず 算 ( かぞ ) えた。
「二枚、」
とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの 槻 ( けやき ) の葉で、ひらひらと 燈 ( ともしび ) を 掠 ( かす ) めて来た、影が 大 ( おおき ) い。
「三枚、」
と口の 裡 ( うち ) で 呟 ( つぶや ) くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に 障 ( さわ ) った。
「四枚、五枚、六枚、七枚、」
と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
空を仰ぐと、天井は底がなく、 暗夜 ( やみ ) の 深山 ( みやま ) にある心地。
おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す 通魔 ( とおりま ) が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の 通証券 ( とおりてがた ) であろうも知れぬ。膝を払って 衝 ( つ ) と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると 渠 ( かれ ) は身震いした。
「えへん!」
と 揉潰 ( もみつぶ ) されたような 掠 ( かす ) れた 咳 ( せき ) して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに 貼 ( は ) った半紙である。
これはここへ来てからの、心覚えの 童謡 ( わらわうた ) を、明が書留めて 朝夕 ( ちょうせき ) に且つ吟じ且つ 詠 ( なが ) むるものだ、と宵に聞いた。
立ったままに寄って見ると、 真先 ( まっさき ) に目に着いたのが濃い墨で、
僧は更に 悚然 ( ぞっ ) とした。
二枚、三枚、
十 ( とお ) とかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
君の年――
振返ると、まだそこに、掃掛けて 廃 ( よ ) したように、 蒼 ( あお ) きが黒く 散々 ( ちりぢり ) である。
霞川に影が流れた。
その 俤 ( おもかげ ) や、俤や――
紙を通して障子の 彼方 ( かなた ) に、ほの白いその俤が……どうやら 透 ( す ) いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、 遥 ( はるか ) に、星の座も、竜宮の 燈 ( ともしび ) も 同一 ( おなじ ) 遠さ、と思う 辺 ( あたり ) 、 黄金 ( こがね ) の鈴を振るごとく、ただ 一声 ( こえ ) 、コロリン、と琴が響いた。
はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
コロリン!
と字が動いたよう。続けて――
琴の音が…………
と記してあった。
草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||