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葉山嘉樹 (Umi ni ikuru hitobito) | ![]() |
二一
その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を 鏝 ( こて ) で焼くように重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であった。極度の 歓 ( よろこ ) びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合ったような一夜であった。
三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、 各 ( おのおの ) の思い出を、その夜は焼きつけた。それは 永劫 ( えいごう ) にさめることのないほどの夜であるべきであると思われた。それほどその夜は 二人 ( ふたり ) にとって大きな夜であった。
人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の 下 ( もと ) に転倒させるような重大な事件があり、社会においては、全社会を 聳動 ( しょうどう ) せしめるような大事件がある。そして、それらの事件が必ず夜か昼かに行なわれ、その事件とはまるで関係なしに、夜になったり、朝になったりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、ばかげた、不思議な感じをきっと起こさせるものだ。中には「ああ、おれにとって、あれほど重大なことがあったのに、どうだろう、夜が明けた」と思わせるのである。
三上と、小倉とは、 各 ( おのおの ) が、そんなふうな感じをもって、朝の六時に起きた。二人ともはれぼったい目をしていた。
一夜は明けた。そして、重大なる事件は未解決のままに、夜を持ち越して、明けたのであった。それは、一夜を持ち越したために、事実の形を千倍もの太さにしてしまった。一夜――五時間―― 伝馬繋留 ( てんまけいりゅう ) ――水夫睡眠――何でもないことであった。それは全くきわめて平凡な詰まらないことであった。
ところが、それの舞台を、社会から、万寿丸にまで縮めると、問題が 由々 ( ゆゆ ) しく大きくなるのだった。
とまれ、小倉は「階段」のことは忘れたにしても、一応は、本船へ帰ってから、万事を解決した方がいいと考えた。ところが、三上は、それはばかなやり方だ、と考えた。そこに、三上と小倉との差違があった。
二人はその家を出た。そして、海岸を伝馬のある方へ逆に歩きながら、その事件の締めくくりについて考え合った。
「おらあ帰らんよ」と三上は、さっきからいい続けていた。
「でも帰らなきゃ様子がわからないじゃないか」これは小倉の言い草だった。
「様子はわからんでもいいよ。あの伝馬をたたき売るか、質に入れるかして、おれたちはどっかへ行った方がいいよ」三上は自分の計画を初めて口に出した。
「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし 行李 ( こうり ) もあるし、そいつあ弱るよ」小倉は全く困るのだった。彼は船長免状を取る試験のために、二度も沈没したりして、それに必要な履歴が実地として取ってあった。それは海員手帳に記入されてあった。
「だから、さようならって僕がさっきからいうのに、いつまでも君がぐずぐず、ついて来るからよ。君はサンパンを雇って帰れ。そして、三上が伝馬を盗んだとでも、何とでもいって、置けばいいじゃないか。僕はこれを売って、どこかへ行くんだから。行李や、手帳なんぞほしくもないや。早く君は帰れ!」
三上はクルッと反対の方を向いて、桟橋の方へ歩を返した。小倉も無意識にそれに従った。
「だって、すこしも君だけが悪いことはないじゃないか、大体船長が無理なんじゃないか、だから、帰ったって何ともないよ。帰った方がいいよ」小倉は、しきりに穏便な方法をとることを三上にすすめた。
「何でもかんでもいやだよ、おれは。もし帰る気になったら、出帆間ぎわに帰る。それまでおれは隠れてて船の様子を見ることにするよ」
彼はこういってズンズン歩いて行った。
小倉は夢でも見続けているように、ボンヤリしながら、三上のあとから無意識に歩いた。
三上は波止場に来て、昨夜つないだ船の伝馬にヒョイッと飛び乗った。小倉も乗ろうとすると、手を振って「みんなに、出帆間ぎわにこれ――といって伝馬を指さして――で帰るからといっといてくれよ。なあ」といいながら、グーッと波止場を押して、離れてしまった。
小倉は失心したようにたたずんでいた。
三上は、その五人前もあるような腕に力をこめて橋の下をくぐって見えなくなってしまった。
「なるほど、三上は帰れないはずだ。船長を 脅 ( おど ) かしたんだもんなあ、それを帰れといって、 昨夜 ( ゆうべ ) 一晩泊まった、おれは何という白痴だったんだ。三上は、たとい理由があろうがあるまいが、どのみちやッつけられるに決まっていたんだ。三上は、伝馬を質に入れるなんて、やつ一流の計画を立てて行っちゃった。が、それがどんなこっけいなやり方であろうが、やつがのこのこ船へ帰るよりははるかにましなこった。知っていて、 陥穽 ( おとしあな ) に首を突っ込むにゃ当たらないもんなあ」小倉は行く先を忘れた 田舎者 ( いなかもの ) のように当惑げにそこへ突っ立っていた。彼の役割は、この上もなく奇妙な、こっけいないいようのない不思議なものになって来た。
「船の伝馬に乗って来て、サンパンをやとって帰る! 一体どうしたんだ。そしてこの責任は、三上と僕とに、あるんだからなあ。どうなるんだ、一体。ままよ! 帰って見れやどうにかなるだろう」
彼はサンパンをやとって、万寿丸へ行くように頼んだ。
「万寿はいつはいったんだい」と 虱 ( しらみ ) 小屋から、はい出した兄弟がきいた。
「 昨夜 ( ゆうべ ) おそくよ」彼は答えた。
「けさここへ 纜 ( もや ) ってあった伝馬は、万寿のじゃなかったかい」と、船頭はきいた。
「こいつらも知ってら。へ、知ってるはずだ。七時だもんなあ。だが、一体| 昨夜 ( ゆうべ ) のことは、ほんとにこのおれが経験したこったろうか、それとも、……全く不思議だったなあ」小倉は昨夜の女のことを考えていた。彼女は賢いそして「純潔」な女だった。
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