University of Virginia Library

     四四

 「これは、だれが、書いたんだ! これは! この要求書は?」船長は、その一声をこの文句によって切って離した。

 「私が、書きました」 舵手 ( だしゅ ) の小倉が答えた。

 「お前が?」船長は、その回転| 椅子 ( いす ) から、無意識に腰を浮かしたほど驚いた。小倉は、コーターマスターの中で、彼の一番愛していた従順な青年であり、頭脳もよく仕事もできる、その上| 風采 ( ふうさい ) のいい、サッパリした男だった。

 「だれかが、お前に、それを書かしたんだろう。お前が自分で、こんなものを書くと言うわけがない、だれだ、この文章を作ったのは」彼はストキをにらんだ。

 「私が、作ったのです」ストキが今度は答えた。

 「そうだろう。お前だと思った。大体貴様は、横着だからな。貴様が、小倉や皆をおだててこんなものを出さしたんだろう」彼は裁判官のごとくに 訊問 ( じんもん ) した。

 「そんなことは、きわめて枝葉の問題と思います。私たちは、食うために船乗りになっているのです。であるのに、船の仕事のために負傷しても、手当をしてもらえないということになれば、私たちは、命をすててかかったも同然です。もっとも、船では命をすててかかってることは、当然だといえば当然ですがね。しかし、ただ、私たちだけが、命を安売りするということは、私たちにも、承知ができないことです」

 藤原は、最初の探照弾を ( ) っ放した。

 「それじゃ、勝手に下船して行ったらどうだったい。だれが、いつお前に、どうぞ、下船しないで乗ってくださいと頼んだ! 頼んだのはどっちだったか、よく考えて見ろ」

 船長が言った。

 「私たちは、どこへ行っても、いいところはないのです。だから、自分の『今』の生活を、よりよくする方法をとるよりほかはないのです。この船ばかりへ日が照らないと言って、下船したところで、他の船でも、陸でも同じことです。だから、自分の今いるところで、より良い条件の ( もと ) に、生活しようとするだけなんです」静かに彼は答えた。

 「私たちは、どこへ行ったっていいところはないのです? え、それは、一体、だれの責任だ。おれの責任だとお前は言いたいんだろう。おれは、今も言ったじゃないか、だれが、頼んで乗ってくれといったと。それに『よりいい条件』の生活がしたかったら、なぜもっと、勉強して上の方へ、 ( のぼ ) るようにしないんだ。自業自得を、人の責任におっつけるのは、 図々 ( ずうずう ) しすぎるぜ」船長は、こいつ一つ ( あぶら ) をすっかりしぼりぬいてやろうと考えた。そして、それからつっ放す! と。

 「ご忠告は、ありがとうございますが、勉強して上へ上がって行く人間があまり多くなると、セーラーなんぞするものが、なくなるだろうと思いまして」彼は危うく笑おうとするところであったが、それだけは取りとめた。

 「ばか! お前は、おれを 愚弄 ( ぐろう ) してるつもりか! ばか! が、いくら勉強してもばかはばかなんだ。セーラーより上にはなれないんだ。だから、実力さえあったら人に遠慮などせずに、サッサと船長にでも機関長にでもなったらいいじゃないか」

 船長は、だんだんストキの話の相手になってしまった。

 「私たちは勉強しても、船長はおろかボースンにも、なれないだろうと思っているのです。ですから、なおさら、私たちは、今のままで、幾分でもいい条件の ( もと ) で労働したいと思うのです。私たちには、決して、船主になったり船長になって、 ( とみ ) や、権利を、得ようという考えなんぞはないのです。私たちは、普通の労働者として、普通の人間としての、生活を要求するのです。人間として、船長は労働者よりもより特別なものだとは、われわれは考えません。われわれは、今では、階級と称せられているものは、一つの仕事の分担に、過ぎないものだと思っています。それだのに、今では、ある仕事を分担すると、同時に、人間を 冒涜 ( ぼうとく ) するようにさえなります。人間が、人間を ( しいた ) げ、踏みつけ、搾取することを、えらくなると考えることは、半世紀ばかり前の考えだと、私たちは思っています。私たちは、人類の生活の一部分の ( たっと ) い分担者として、自分を見ているのです。だが、あなた方は、私たちを資本家と思っている」ストキは、その話にだんだん熱と 真摯 ( しんし ) とを加えた。

 「資本家と思っている。お前らをか? ハッハッハハハハハ」とうとう船長も、あまりのストキの言葉にふき出してしまった。「恐ろしい資本家もあったものだ! ハッハッハハハハハ、 ( のみ ) 南京虫 ( なんきんむし ) のだろう!」

 メーツらは皆笑った。セーラーたちが、資本家とは珍しい言葉だった。

 「もし、私たちを資本家だと思っていないのならば、 奴隷 ( どれい ) と思ってるだけです。私たちの売ることのできるものは、私たちの労働だけです。つまり『からだ』だけです。だが、それも、私たちのものでないと考えられるならば奴隷だ、と考えられることになるのでしょう。しかし、奴隷だったら、なぜその奴隷の生命を大切にしませんか。奴隷は、あなたたちの財産じゃありませんか。私たちの生命が、あなたたちにとって、まるで、どうでもいいものになったのは、私たちが奴隷から、資本家、すなわち賃銀奴隷になったからです。それは、とっかえるほど新しい、いい商品が、無限にあるからです。

 それに、私たちは、いつまでも、どんな奴隷ででもありたくはなくなったんです。どんな機会にでも私たちは、私たちを縛る鉄の鎖を打ち切る用意をしているのです。

 私たちは、人間として、生きようとしているのです。そこへ持って来て、どうです! 私たちは蚤と南京虫の資本家! なんでしょう、私たちは、その要求が通ればよし、通らなければ、私たちの力がどのくらいあるかを、お目にかけるまでです」

 ストキは最後の言葉に、力をこめて言い切った。

 「フン、それもよかろう。だが何かね。波田、おまえは自分から進んで、この要求書に 捺印 ( なついん ) したんじゃないだろうな。だれかが、お前を 煽動 ( せんどう ) したんだろうな」船長は、方向を転換した。

 「私は、どの船でもストライクの種を、見つける役目をするつもりで、船のりになったんです。私は、この船に乗った最初の日から、 風呂場 ( ふろば ) のないことでも、ストライクがやれると考えていたのです」便所| 掃除人 ( そうじにん ) 波田は、風呂場のないことに、だれよりも、苦痛を感じていたのだ。それに、彼は、若くて新しい社会の空気を吸っていたのだ。船長はこの無邪気な、彼の便所を彼の居室よりも、金具などきれいにみがき上げるこのきれい好きな、忠実な青年が「過激派」であろうとは思わなかった。それに「こいつはストライクを見つけて歩くなどと、抜かしやがる! まるで、こいつらはパルチザンだ!」

 船長は、意外に、水夫らが結束を固めているのを見た。それは、発作でもなかったし、衝動でもなく、計画されたものであったのを知った。

 この時、火夫室ではまた、 喊声 ( かんせい ) が上がった。それがサロンへ響いて来た。

 出帆時刻は、どんどんとおそくなる! 正月はどんどん近くなる!

 船長は、いら立って来た。

 「西沢、貴様はどうだ。 宇野 ( うの ) (捺印した 舵手 ( だしゅ ) )、小倉、貴様らも同意した、捺印したんだな。よし、チーフメーツ! ボーレンへ至急行って、水夫四人、コーターマスター 二人 ( ふたり ) 、ボースン 一人 ( ひとり ) 、――とうとうボースンにも ( たた ) りは来た――すぐ、万寿丸へ、チャンスだといってくれたまえ、そして、こいつらを乗船停止を命じて、それを雇い入れてくれたまえ、出帆が、あまりおそくならないように、今からすぐかかってくれたまえ!」彼はチーフメーツに命じた。

 その結果は、水夫らは、 昨日 ( きのう ) からもう知っていたのだ! 室蘭じゅうのボーレン(それは 半素人 ( はんしろうと ) のも入れてたった三軒切りないのだ)――に、昔船のりだった、そのボーレンの主人が二人と、一人の沖売ろうとがいるだけなのだ! 彼らは、陸上に一軒を経営しているのだ! 彼らは、どんなことがあったって、十三円や十八円で、一家の生活を保とうとして船に乗る気づかいはなかった。ストライクブレーカーはおあいにくであった。「そのくらいのことは、おれたちだって気をつけてるよ」と藤原は言ってやりたかった。波田はもうムズムズしていた。

 ボースンは驚いた。その職業と、月二割の利子――もっともうち、一割はチーフメーツ(実は船長かもしれない)が、上前をはねるんだが――とが、フイになるのである。しかも、彼は、何をしたんだ! ただ、忠実な番犬だったのみではなかったか。彼は、功労こそあれ何の過失があったか、すでに、彼は、いったんの危急をチーフメーツのために、救助さえしたではないか。

 「しかし、これは船長に何かの深い考えがあることだろう。一度、皆の前でそう言って、ボースンは代わりがいない――と言うようなことにするつもりなんだろう。でなきゃ、船長だっておれの首を切れた義理じゃなかろう、おれがいなけゃ、あの ( めかけ ) だってあんな具合に、お安く手に入らなかったに違いないんだから」

 哀れなボースン、彼は憶病犬みたいに、半信半疑で、主人の心を探っていた。だが、ボースン、君が、君自身のことを考えるようには、他の人は決して君のことを考えてはいないんだ。君自身が食えなくて餓死する 刹那 ( せつな ) にだって、他の人は妾のことや、 芸妓 ( げいぎ ) のことなどを考えてるのだ! 他の人は、全く、他の人の身の上のことなど、てんきり考えはしないんだ。他の人とはお前を使うところの人だ、わかったか、ボースン!

 だが代わりは、ボースンに限ってないわけではなかった。それは、室蘭じゅうに一人のボーイ長の代わりだってなかった。

 チーフメーツはややこの点に、その考えを向けるだけの余裕を持っていた。

 「船長」と彼は、船長の回転椅子の背後から、低い声で船長を呼んだ。

 「チョッと」と彼はあとしざりした。

 「何だね? うん、ああそうか、じゃあ室へ」チーフメーツへ言った。チーフは船長室のドーアの中へ消えた。

 「お前らは、ここへ待ってろ!」水夫たちにこういうと、船長は、チーフメーツのあとを追って自分の室へはいった。

 船長も、その辞書の中から、不可能という字を、削る冒険はするくらいな男であった。従って、チーフは、船長に室蘭でそれだけの労働者を、即時に得るということは「不可能」だと、いいたかったのであった。が、船長は、全く、始末にいかぬタイラントであった。それは、コセコセしたちしゃの葉のような感じのするタイラントだ。

 「船長、室蘭にはボーレンが一軒切りありませんが、ね、……」彼は、どうだろうといったふうに、

 「正月前だから、休んでいるものがないだろうと思うんですがね」チーフメーツは切り出した。

 「もし、室蘭になかったら 小樽 ( おたる ) か、 函館 ( はこだて ) から呼ぶんだ。えーっと、しかし、そうすると横浜帰航が大変おそくなるね。だが、室蘭に五人や十人の船員がないってことはないだろう。君は調べて見たかね」船長はきいた。

 「実は、入港するとすぐきいて見たのですがね。二、三日前までは、三、四人休んでいたが、便をかりて横浜へ行ったとか言ってたんです。だから、それから一週間にもならないんだから、とてもだめだろうと思うのですよ。で、なけれや私もストキは、早く処分しなけりゃならないとは思っていたのですから、代わりさえあれば、ここで下船させるつもりだったんです。あれさえいなけりゃ、 ( なあ ) に他の連中は 尻馬 ( しりうま ) に、乗ってると言うだけのもんですからね。どうでしょうあいつだけを、下船させることにして、あとはチビチビやったら……でないと横浜正月がフイになりますよ」

 チーフメーツもボーレンを探っていたのだ!

 「そうだなあ! 僕も、浜で正月をしたいと思ってるんだが、それさえなけりゃ、十日や二十日| ( いかり ) を入れたってかまやしないんだけどなあ、じゃあ、応急手当として、ストキだけ下船さすか」船長も賛成した。

 「それがいいと、思うんですがね。ただ、その方法です。どういうふうにしたらいいか、皆の前でやるか、それとも一人だけ呼んでやるかですがね。で、もし、水夫ら全体があいつについて行くというような時には、二十か三十やって追っぱらうよりほかに、仕方がないと思うんですよ」チーフは何でもいいから、彼が、この船から「消えてなくなれ」ばいいと思うのであった。

 「そう! 何にしても、この際時間を争うんだからね。どんないい方法も遅れちゃいけないんだから。じゃ、ストキのやつに下船を命じよう」船長は言った。「だが、一体、やつらは何という不都合なやつらだろうな。これが横浜だったらなあ」

 船長は、横浜でないことを、返すがえすもくやしがった。やつらを「殺しても、あき足らないほどなのに、場合によっては、下船どころか金まで出すとは!」全く、彼のくやしがるのは 理由 ( わけ ) があった。

 「何にしても時が、悪いもんですからなあ。ところで、ストキが、海事局にボーイ長の雇い入れ未済のことと、負傷のこととを申告しやしないかと思うんですがね。そいつをやられると、どうもおもしろくないから、なるべくうまく、ごまかす必要があると思いますね」チーフメーツは、外に出ようとしながら言った。

 「だが、全く、 ( しゃく ) にさわるじゃないか、停止も食わせないなんて、監獄にでもほうり込んで、やりたいくらいだ。治警に立派に、引っかかってるんだからね。畜生め?」

 それは、船長が ( おこ ) るのは、いうまでもない「ごもっとも」な話だ。

 二人は、まだ何かこそこそと話した。一々そんな話を書くのは、面倒臭くて ( ) えられない話だ。先へ進もう。急げ、急げ。