University of Virginia Library

     三六

 私がまるで酔っぱらいのように、千鳥足で歩き、一つのことをクドクドと、繰り返している。だが、これは、私が船のりであるからで、小説家でないからのことだ。全く、こんなことを、いや、「書く」ということは、とてもむずかしいものだ!

 ボーイ長は、もうこれですっかり傷も、それから来た病気も、「これでいよいよなおるんだ!」と思った。それは、今から室蘭の公立病院に行くからであった。

 そこに行くためには、どうしたって、海も見るだろうし、家も見るだろうし、木々も見えるだろうし、また、町の人々も、そのほかいろいろなものを見ることができるんだ! そうだ、彼は頭の上の、上段の寝箱の底板ばかりを一週間ばかりながめつづけていたのだった。

 こんな場合には、人は恐らく、どんなものでも、見るもの一切がなつかしいものだ、どうかすると、自分にけんかを吹っかける、酔っぱらいでさえも。それは放免された囚人の心と同じであった。

 彼を連れて行く、藤原と、波田とはしたくをしていた。したくをしながら、二十五歳のキビキビした青年、波田は悲痛な冗談をいっていた。

 「病院には、看護婦がいるぜ、色の白い、無邪気な、それほど 別嬪 ( べっぴん ) ではないが、すてきにかわいい……」

 「何だい、こいつすみに置けねえなあ、君は病院に行ったことがあるかい」波田にしては珍しい話なので、藤原が一本突っ込んだ。

 「その目がいいんだ! 目がね、 ( よご ) れたどんな ( ちり ) も映さない、山中のまだ発見されない、処女湖のような澄み切った、親切な目なんだ! その女は、全く、どの患者にでも、 兄妹 ( きょうだい ) のように、わざとらしからぬ親切さでもって、接するんだ!」波田は、すでに十度以上は、便所| 掃除 ( そうじ ) ( よご ) した仕事着に腕を通しながら、自分の恋人のことを語るように言った。

 「似合わねえな。波田君、 ( くそ ) だらけの服と、澄み切ったひとみの処女とは、どう工面して見たって、縁がねえなあ」と、藤原は冷やかした。ボーイ長までも、ウッカリほほえんだ。水夫たちも笑った。

 「マ、待ちたまえ、先回りしちゃいけないよ。実際だね。僕だって、もう二十五になるんだからね。恋も、愛も十分に知ってるさ。その時に、もし、そんな処女に病院で出会ったらだね。この糞のにおいのする仕事着にでも近づいて来るだろうかってことを考えてるんさ、ハッハハハハハ」彼は笑った。その 笑顔 ( えがお ) の中には全く、処女湖に宿す、処女林のような純な表情があった。

 「だって、君は、自分でも言ってるじゃないか、『女難| ( ) け』にはこの菜ッ葉が一等だって、そうだと、もちろんその娘だって例外じゃないぜ」小倉が言った。

 「悲観悲観、おれが女のことなどいい出したのが、よくねえんだな、おれの妹だって、こんなきたない労働者とは結婚したがらねえだろうからな。ハッハッハハハハハ」

 「それは全くだよ、波田君」藤原は感に ( ) えぬようにして言った。

 さてしたく、――それは、その通すべきところへ、手、足を通して、はめるべきところへボタン、 ( くつ ) 、帽子とはめればいい――はでき上がった。全く波田は「女難| ( ) けのお守り」であった。新米の 乞食 ( こじき ) などは、彼より立派な ( ふう ) をしていた。彼の髪と来たらなれた乞食と区別がつかなかった。

 波田は、ボーイ長を背中に ( おぶ ) った。水夫たちは、ボーイ長を彼の背中に、そうっと乗せるようにした。

 「済みません」と、ボーイ長はうれし涙に詰まったような鼻声で言った。

 三人は、四本の足で出発した。

 子供を負んぶすることでさえも、非常に肩が痛く、また重いものである。ボーイ長の場合にははなはだしく重かった。そして、困ったことには、その胸が痛く、なおより悪いことは、砕けた左の足が、ともすればダラリと下がって、雪の中をひきずるのであった。ボーイ長は、足を引き上げていようとして、全身の注意を左足に集めて、それを、ひきずらすまいとしたが、だめであった。ボーイ長の足の下がると同様に、波田の手までが下がるのだった。

 波田が、ボーイ長を揺すり上げるのは、二十歩から十歩になり、今では一歩ごとに揺すり上げるようになった。ボーイ長は、痛さと寒さとのために、顔色をなくしていたが、それでも辛抱した。

 彼らは、桟橋から、二十間ぐらいのところにある、

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番小屋へはいった。そして、ボーイ長をベンチへおろした波田は、額の汗をぬぐった。

 「アア、ご苦労様」藤原は言った。ボーイ長は、心臓の鼓動がくたびれていて、額から冷汗が出て、ものを言う気に、どうしてもなれなかった。ただ、アーッと小さくため息をもらした。

 番小屋で休んでいた男女の人足たちは、彼らが取りめぐっていた、ストーブの一辺をあけて三人に与えた。そして、ボーイ長の負傷に同情と 憐愍 ( れんびん ) の言葉を贈った。

 「おれたちあからだが 資本 ( もとで ) だでなあ、大切にしなけれや」と言い合った。「かわいそうにまあ、まだ子供だによ」と言った。

 ボーイ長の左足は、銃剣の ( さき ) のように、 白木綿 ( しろもめん ) でまん丸くふくれ上がっていた。その ( さき ) がストーブの暖かみで、溶けた雪粉によって湿らされていた。

 ボーイ長は、そこで、変わった人々の慰めの言葉を聞いて、涙ぐまれてしようがなかった。

 彼の母ぐらいの年配の老いたる婦人も、あの劇労に従うのであろう、ショベルを ( つえ ) にストーブのそばへ立っていた。彼は、恥ずかしい気持ちを感じた。なぜそうであったかはわからないが、彼がけがをして病院へ負われてなど行くということが、恥ずかしい気がしたのであっただろう。そこにいた人たちは、そんな大きなショベルを動かすさえ困難であったように見える、年配の人が多いのであった。それは皆四十を越しているか、そうでなければまだ十五、六の子供かであった――そんなのが娘さえも交じって四、五人いた――働き盛りの者はどこにいるだろう? と、人々は思わずにはいられなかった。

 働き盛りの者は、 夕張 ( ゆうばり ) 炭田の、地下数千尺で命をかけて、石炭を掘っているのだ! それに、彼らの 息子 ( むすこ ) や娘が、そっちへ出かせぎに行っているのだ。そして、帰って来れば、不具者か敗残の 病躯 ( びょうく ) か、多くは ( かばね ) になって帰って来るのだ。

 「おれも、片輪になって帰らねばならないだろうか」ボーイ長は、灰になりかけた石炭のような、味気ないさびしさに心を虫食われた。

 「サア、行こうか、今度は僕が ( おぶ ) うからね」藤原が言った。

 人足の人たちも手伝ってくれて、ボーイ長は藤原に負われた。三人は、また、四本の足をもって、 馬蹄形 ( ばていがた ) の海岸の 石崖 ( いしがけ ) の端を、とぼとぼと拾い歩きして行った。そうして、藤原は ( たけ ) が高かったにしても、雪は二尺から積もっていた。踏まれた道は狭かった。ボーイ長は、道ばたの高い雪へ、足で合図の ( しるし ) でもつけるようにして、その足をひきずらねばならなかった。

 三人は、それほど黙っていないで、まれには一言ぐらい何か言ったらいいだろうと思われるほど、黙ってくっついて歩いた。三人も自分で、何かその不愉快な苦痛な沈黙に反抗したいとは思っても、口をきくだけの気力がないのであった。それは何か官庁の手続きででもあるように、非常に面倒臭いことのように思われるのであった。

 道は、藤原と、波田にとっては、昨夜歩いたと同じ道であるのに、道の方が先へ向こうへすべり抜けでもするように遠く思えた。

 しかし、彼らはやがて、第二の小屋まで来た。そこは、港の最奥部で、馬蹄形の頂点になっていた。その小屋からしばらく行くと、彼らは、左へ、海岸から離れて、石炭の連峰の間に、こしらえられたトンネルを抜けて、それから、室蘭駅の機関庫のある、数十条のレールの平原を横切って、 ( まち ) へ出るのであった。

 彼らの一行は、第二の小屋で息を入れた。

 そこにも、沢山の人足の人たちが、まっ ( ) に焼けたストーブのまわりに、集まっていた。

 三人は、また、そこで、人足たちに席を与えられて、そして、前と同じようなことを繰りかえした。一休みごとに、彼らは、少しずつぬれるのであった。

 やがて、一行は、レールの平原を通り越して、街に出た。そこで、ボーイ長に ( くるま ) ( そり ) かを雇いたかったが、そんなものはなかった。波田と藤原とは、かわるがわる汗だくになりながら坂を ( のぼ ) り上って、もう少し上れば、半島の 頸部 ( けいぶ ) から、大洋の見えるほど、市街の高い部分へ上って行った。そこに公立病院があった。